ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Sandor Marai の “Embers” (2)

 これは雑感で紹介したように、世界有数の文学ブロガーだったカナダの故 Kevin 氏が、2014年のベストテンに選んでいた作品である。Sandor Marai という作家、もちろんぼくは初耳だった。Kevin 氏の守備範囲はほんとうに広かった。
 が、不遜なことに、本書にかんする記事は読んでいない。それゆえ、氏が本書のどういう点を高く評価していたのかはわからない。Kevin 氏の本格的なものと察するレビューにはおそらく、ぼくの気がつかなかった点の指摘が多々あるはずだ。それどころか、きのうのレビューらしきもの、あれはとんだ勘違いですな、ということになるかもしれない。
 その〈らしきもの〉ではネタを少々割りすぎている。「旧友と将軍、その亡き妻の微妙な三角関係」のことだ。が、これはかなり早い段階で察しがつくものと思う。読めばすぐにわかるのでバラしてしまった。
 その三角関係だけで言えば、本書は「一見、メロドラマのようである」どころか、正真正銘のメロドラマ。よくある話だ。
 けれども、たとえばこんな一節に出くわすと、これは単なる痴情のもつれではないぞ、という気がしてくる。将軍の独白だ。"Well, of course we are westerners," .... ".... For us, killing is a question of law and morality, or medicine, at any rate a sanctioned or prohibited act that is very precisely delineated within our system of thought. We kill, too, but in a more complicated way; we kill according to the dictates and authorization of the law. We kill to protect high principles and important human values, we kill to preserve the social order. It cannot be any other way. We are Christians, we have a sense of guilt, we are the product of Western civilization. Our history, right up to the present, is filled with mass murder, but whenever we speak of killing, it is with eyes lowered and in tones of pious horror; we cannot do otherwise, it is our prescribed role. ...." (pp.126-127)
 ぼくはこのくだりを踏まえ、「えんえんと続く将軍の独白を通じて、作者は西欧文明を総括し、理想のために流血の惨をもたらした西洋人の心の奥に分け入り」とレビューに書いた。西欧文明の本質をこれほど簡潔に要約した例は、ぼくの知るかぎり、Melville の "Billy Budd, Sailor" をおいてほかにはない。いや、E. M. Cioran の諸作もそうだろうか。とりわけ、'a sense of guilty' を具体化した 'but whenever ....' の箇所に心を打たれる。
 が、ひるがえって、〈痴情のもつれ〉を描くのに、これほど鋭い知性はまったく必要ない。こんな digression に紙幅を割くまでもなく、あっさり片づけることができるはずだ。とすれば、この digression はじつは digression ではなく、作者はやはり、メロドラマを通じて「西欧文明を総括」しようとしているのではないか、と思えるのである。
(写真は、宇和島市中町(なかのちょう)教会。ぼくが教会付属の幼稚園に通っていたころは、この半分くらいの大きさで、今よりずっと古ぼけていた)