ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Graeme Macrae Burnet の “His Bloody Project”(2)

 イギリス各社の最新のオッズを調べると、本書はブッカー賞レースでおおむね3番人気。意外に高い下馬評なんだなあ、というのがぼくの感想だ。
 たしかに「よく出来たクライム・ストーリー」だし、「人生の苦い真実も汲みとれる点」も評価できる。が、「苦い真実」といっても、目からウロコが落ちるようなものではない。また、それが心にしみじみと伝わってくる感銘度も、まあフツー。
 ぼくがいちばん気になったのは、犯人の少年の回想録と、のちの検視報告や裁判で明らかになった事実とのあいだに矛盾があることだ。
 それを紹介すると事件のネタを割ることになるので詳細は伏せておくが、ぼくはまず検視報告を読んでいて、あれ?と思った。さらに法廷シーンが始まり、その矛盾点が重大な意味を持つことに気がついた。そこで回想録の該当箇所をチェックしてみると、間違いない。やっぱり、〈その記述〉がないのだ。これは少年が意図的に省略したとしか考えられない。それなら少年の取った行動は誤解を招いても仕方がないだろう。
 と考えたあげく、「一見単純な事件でも真相は藪の中。また神ならぬ人間の裁きに完璧は期しがたく、あってはならない誤審の可能性がつきまとう」とレビューにまとめた次第である。
 一つの事件に複数の解釈が成り立つ物語といえば、誰しもまっ先に思い浮かべるのはご存じ『藪の中』だろう。それから、ミステリ・ファンなら中井英夫の『虚無への供物』を挙げる人もいるはずだ。ほかにもまだ例はありそうだが、ぼくはこの十年来、ミステリから遠ざかっているので、あとは思いつかない。 
 もちろん、雑感にも書いたように、「作者はミステリを書こうと思って書いたのではない」。しかし、だからといって事実に矛盾があってはならないし、もしそれが意図的な矛盾であるのなら、なぜそんな設定にしたのか詳しく説明する必要がある。
 『藪の中』にしても『虚無への供物』にしても、矛盾の必然性については十分紙幅が割かれていたように思う。しかも、両書には深い余韻が残る。感銘度はこの "His Bloody Project" よりはるかに高い。
 というわけで、上の第2パラグラフに戻ります。
(写真は、宇和島市来應寺にある西園寺宣久の墓。西園寺一族は南北朝時代から寺の周辺を領地とし、宜久は天正3年(1575)、板島丸串城(現在の宇和島城)の城主となった)