ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

ぼくの2016年ブッカー賞予想と回想

 おととい、Graeme Macrae Burnet の "His Bloody Project" を読了。ブッカー賞受賞作の発表前に最終候補作をぜんぶ読みおえたのは、なんと2011年以来5年ぶり。まことにお恥ずかしい限りだが、ぼくにしてはけっこう頑張ったほうだ。
 昨年秋、本ブログを再開したとき、ぼくには一つの目標があった。それがブッカー賞の発表前、最終候補作の全冊読破である。とうに還暦も過ぎたおじいちゃんとしては、そんなささやかな目標でも、まったく何もないよりは、この先少しはましな老後を送るきっかけになりそうな気がしたからだ。
 というわけで、今年は6月から "The Mookse and the Gripes" などによる情報をもとに、まずブッカー賞有資格候補作から読みはじめた。その中で、少なくともロングリストに選ばれてほしかったのは、Garth Greenwell の "What Belongs to You"(☆☆☆★★)と、Yann Martel の "The High Mountains of Portugal"(☆☆☆★★★)。前者は、今年の全米図書賞のロングリストに選ばれている。2004年のブッカー賞受賞作、Alan Hollinghurst の "The Line of Beauty(☆☆☆)などより、はるかにすぐれたゲイ小説である。全米図書賞のショートリストに残らなかったのは意外、というあちらのファンの声も多いようだ。
 7月、ブッカー賞のロングリスト発表。上の2作より落ちる作品も選ばれていたことに不満あり。
 9月、ショートリスト発表。Elizabeth Strout の "My Name Is Lucy Barton"(☆☆☆★★★)が落選したのは残念。同じく〈人生しみじみ系〉の作品がほかに2つも選ばれたので、いちばん地味な同書がワリを食ったのだろう。
 さて、ぼくの受賞作予想だが、その前にまず、イギリス各社のオッズによるランキングを紹介しておこう。
1 Deborah Levy:Hot Milk(Highest odds:4.00 Lowest odds:3.25)
1 Madeleine Thien:Do Not Say We Have Nothing(Highest odds:4.00 Lowest odds:3.25)
3 Graeme Macrae Burnet:His Bloody Project(Highest odds:5.00 Lowest odds:5.00)
4 Paul Beatty:The Sellout(Highest odds:6.50 Lowest odds:5.50)
5 David Szalay:All That Man Is(Highest odds:7.00 Lowest odds:6.00)
6 Ottessa Moshfegh:Eileen(Highest odds:9.00 Lowest odds:7.00)
 次に、"The Mookse and the Gripes" のディスカッションによるランキング。
1 Levy:2.78 (36 readers) (10 first place) (top3/bottom3 25/11)
2 Burnet:2.8 (30 readers) (5 first place) (top3/bottom3 21/9)
3 Szalay:3.23 (31 readers) (2 first place) (top3/bottom3 18/13)
4 Thien:3.36 (28 readers) (9 first place) (top3/bottom3 15/13)
5 Beatty:3.48 (33 readers) (6 first place) (top3/bottom3 16/17)
6 Moshfegh:4.74 (34 readers) (1 first place) (top3/bottom3 6/28)
 どちらも "Eileen"(☆☆☆★)が最下位。従来のブッカー賞の受賞傾向からして、これは順当な結果ですな。"The Sellout"(☆☆☆★★★)も不人気。ご存じ今年の全米書評家協会賞受賞作だが、アメリカ馬をレースに参加させた弊害で、去年の3月刊行の作品が今年のブッカー賞に選ばれることにはいささか抵抗がある。
 残りの4作のうち、"His Bloody Project" のみ、ぼくの評価は☆☆☆★。だから、これが穴馬で決まり。
 あとはどれも☆☆☆★★★。飛び抜けた傑作はなかったような気がする。それなら好みで決めるしかない。ということで、以下、順にレビューを再録しておこう。

1. Deborah Levy (UK): Hot Milk

[☆☆☆★★★] ここには感動はたぶん、ない。自分が自分を見うしない、自分ではないものに縛られ、自分を愛しているはずの人間、自分自身が愛しているはずの人間との関係があやうい若い女。介護が必要な母の治療のために訪れた南スペインの海辺で、母と別れた父の住むギリシャの街で、彼女は考える。迷う。自分とは、自分の人生とは、愛とはいったい何なのだろう。ゆれ動く微妙な心理が静かな、しかし鮮やかなショットで風景に映しだされる。出会った男たち、女たちとのふれあいのなかで劇的な事件が起こり、感情が高まり、落ち込み、また爆発し、純化される。本書はそうした濃密な心象風景を、さまざまな思いの去来する一瞬の情景を楽しむ本である。それを絶妙かつ的確にとらえた繊細なタッチに読みほれてしまう。かりそめの中途半端な人生、あいまいで不確かな現実を象徴するエピソードが連続する。と、ふと行間に目をとめ、自分自身の人生をふりかえりたくなるかもしれない。そこにも感動はないかもしれない。が、心に浮かぶ風景ならきっとあるはずだ。本書は、ヒロインに共感できれば、そうした記憶の引き金になるような作品である。

2. David Szalay (Canada-UK): All That Man Is

[☆☆☆★★★] 形式的にはナイン・ストーリーズ。いや実質的にも短編集だが、もしこれを長編と考えるなら、主人公はタイトルどおり「男」。17才の少年から70過ぎの老人まで、9人の男がリレー方式で次第に年齢を上げながらイギリスからクロアチアまで、ヨーロッパ各地で男ならではの人生を歩む。青春の挫折、喪失と苦悩、女とのすれちがい、私情と仕事の板ばさみ、迫られた選択、事業の失敗、迫りくる死。男がいつかはどこかで必ず経験する人生の厳しい局面が、時にユーモアをまじえながらほろ苦く、あるいは張り詰めた空気のなかで重苦しく、それぞれの場面にふさわしい筆致で描かれる。よかれあしかれ、泣いても笑っても、これが男の人生なのだ、というわけである。と同時に、人生は冗談ごとではない、というメッセージも読みとれ、そしてなにより鋭い感覚で一瞬、心のひだを、人間存在の現実をとらえたものという意味で、これはけっして性差別小説ではない。人生の過ぎゆく時間を、ひとつひとつの瞬間を永遠の流れのなかに定着させようとする試みともいえよう。作者は、人生のはかなさと永遠性を同時に見つめている。これはその葛藤から生まれた短編集にして長編小説である。

3. Madeleine Thien (Canada): Do Not Say We Have Nothing

[☆☆☆★★★] 政治と音楽を対位法的にとらえた重厚な大河歴史小説。主旋律のひとつは、文化大革命天安門事件を頂点とする激動の中国現代史だ。正義という名の粛清、大衆ヒステリー、公開リンチ、そして暴力、殺戮、弾圧。全体主義の恐怖が劇的かつ臨場感たっぷりに描かれる。タイトルは中国版『インターナショナル』の英訳歌詞の一節で、これを歌いながら人民が人民解放軍に立ち向かうところに痛烈な風刺が読みとれる。どのエピソードもおそらく史実、ないしは史実にヒントを得たものと思われる説得力があり、その集積として浮かびあがるのが恐るべきディストピア。正義から圧政、殺人にいたる過程はドストエフスキーの『悪霊』と軌を一にしている。もうひとつの主旋律は音楽だ。事件に巻きこまれるのが三人の音楽家とその家族とあって、音楽の話題はつねに政治と平行して進む。真の音楽は作曲家の魂から生まれ、演奏家の霊感を通じてリスナーの心に直裁に響いてくる。こうした音楽の特性はまさしく自由そのものであり、本来、イデオロギーの及ぶところではない。それを政治の現実と対峙させることで、自由と圧政という対位法も生まれている。おなじみのテーマだが、それを音楽家たちの人生および国家の歴史としてフィクション化した点がみごと。大力作である。