ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Magda Szabo の “The Door” (3)

 いつものことだが、最初は本書のテーマがよくわからなかった。いや、いまも本当に理解しているかどうか怪しいものだ。
 ともあれ、これまた例によって独断と偏見で、開巻早々、これは「非常に密度の高い秀作」だ直感したものの、また、雑感で紹介したようなドタバタ喜劇を大いに楽しみながら読み進んだものの、正直言って、それが「どんなテーマにつながるのかはイマイチ」どころか、さっぱり見当もつかなかった。
 ただ、やけにおもしろい。「変人、偏屈そのもの」の家政婦と、いたって常識人の「私」とのギャップから生まれる衝突がとにかくユーモラス。
 が、そのうち二人が「次第に深い愛情の絆で結ばれていく」展開が見えてきた。ふむふむ、けっこうなお話ですな。でも、もしそれだけなら、ちとありきたり過ぎないか? とてもじゃないが、「非常に密度の高い秀作」とは言えませんぞ。
 と、そこへこんな一節が目に入った。There was something monstrous, deformed, in the contempt she [Emerence] heaped on everything. Those propagandists must have lived through the most agonising moments of their lives when Emerence acquainted them with her political philosophy. In her view Horthy, Hitler, Rakosi and Charles 1V were all exactly the same. The fact was that whoever happened to be in power gave the orders, and anyone giving orders, whoever it was, whenever, and whatever the order, did it in the name of some incomprehensible gobbledegook. Whoever was on top, however promising, and whether he was on top in her own interests or not, they were all the same, all oppressors. (p.108)
 ぼくは、これが老いた家政婦 Emerence の頑迷固陋の本質だと思う。むろん、彼女は個人的に多くの辛酸をなめている。が、ただそれだけでガンコばあさんになったのではない。「激動のハンガリー現代史の生き証人として、二つの世界大戦をはさんだ政治体制の劇的変化を目撃。空疎な政治理念や主義主張」に愛想を尽かしたからこそ、孤高の人となったのではあるまいか。
 Emerence の昔話を聞いているうちに「私」は述懐する。At that moment I understood our recent history as I never had before. (p.147)
 ここで牽強付会を承知で結論を述べると、「私」と Emerence のバトルは、じつは〈歴史との対話〉かもしれない。形式的には「コメディー仕立ての寸劇」でありながら、歴史の生き証人と衝突することによって、しだいに歴史の意味がわかってくる。つまり、 In her view Horthy, Hitler, Rakosi and Charles 1V were all exactly the same. というわけである。
 どうでしょう。もしこの解釈が正しいなら、これはたしかに「非常に密度の高い秀作」ということになりそうですね。
 が、本書がすぐれている点は、こうした〈歴史との対話〉だけではない。
(写真は、宇和島市立明倫小学校。昔はバックネットはこの位置にはなかったような気がする。が、木々やプール、右側の白いシャワールームは同じ位置。背景の建物(現・宇和島中等教育学校の校舎)もまったく変わらない、と思う。なんの変哲もない風景だが、ぼくは8年前の夏に撮影中、気が遠くなってしまった)