ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Magda Szabo の “The Door” (5)

 当初 Emerence は「ただの偏屈ばあさん」にしか思えない。が、「私」をはじめ周囲の人たちとのバトルを通じて、彼女がじつは歴史の生き証人であり、またキリスト教の隣人愛を実践していたことがわかる。当然、彼女は多くの人々に尊敬されている。そのこともまた、「コメディー仕立ての寸劇からありありと伝わってくる」。
 このように、寸劇は結局、Emerence の人物像を効果的に明らかにするものだったのだ。ぼくは本書を「クスクス笑いながら」、かつ、その笑いが「どんなテーマにつながるのか」サッパリわからないまま読んでいたが、謎が解けてみると、なるほど、うまいなあ、と感心せずにはいられなかった。
 しかしまだ、謎は残っている。扉の向こうには何があるのだろう。
 というのも、Emerence は他人のために奉仕する一方、自宅にほとんど誰も招かない。たとえ招くことがあっても、家の中には一歩も入らせない。扉の向こうにあるものを知っているのは、彼女自身のほかに数匹の飼い猫と、それから「私」が飼っている犬だけなのだ。
 この謎は、タイトルからも想像できるように、本書の最大の眼目と言っていい。これに関連して、ぼくはレビューをこう締めくくった。「そんな家政婦が守りとおした価値観は、個人的信念であるがゆえに相対的であり、時の流れ、そして当人の死とともに消え去る運命にある。これは、みごとだが、はかない、はかないが、みごとな人生への〈扉〉をひらく本である」。不得要領の思わせぶりな書き方だが、これでもかなりネタを割っている。あとは読んでのお楽しみ、ということにしておこう。
 ともあれ、Emerence ほど極端ではないにしても、彼女のようにガンコだが憎めない、それどころか愛すべき、尊敬さえすべき人物はどこかに必ずいる。「空疎な政治理念や主義主張には目もくれず、実生活の中で誇りをもって他人に奉仕する」。前回、ぼくのふるさと愛媛県宇和島市の写真を添えて紹介した〈ゲンじい〉も、ひょっとしたら、そういう人物のひとりだったのかもしれない。
(写真は、宇和島市立明倫小学校にほど近い通学路。新しい建物もあるが、昔の雰囲気がぷんぷん漂っている。背景は亡父の愛した山々)