「なぜ秋なのか」。ぼくはそう疑問に思いながら本書を読みつづけたが、一方、ぜったい確実に起こる出来事がふたつあるとも思っていた。
まず、「療養所でこんこんと眠りつづけている」Daniel がいつかは目を覚ますこと。次に、101歳の彼がいずれ死を迎えること。
当たり前の話である。そこで、タイトルにからめて「当たるも八卦、当たらぬも八卦。Daniel は秋口に他界するんじゃないでしょうか」と予想していた。
それがずばり的中だったかどうかは、読んでからのお楽しみ。ともあれ、エンディングはこうなっている。November again. It's more winter than autumn. That's no mist. It's fog. .... The trees are revealing their structures. There's the catch of fire in the air. All the souls are out marauding. But there are roses, there are still roses. In the damp and the cold, on a bush that looks done, there's a wide-open rose, still. / Look at the colour of it. (pp.259-260)
ふうむ、なかなかイミシンですな。「最後、冬の初めに咲いた美しいバラは、作者が祖国に対していだく、かすかな希望を象徴しているのかもしれない」というのがぼくの解釈だ。さて、どんなものでしょう。
少なくとも、本書が「国論を二分する問題で揺れ動くイギリス」をえがいた作品であることだけは間違いあるまい。ひるがえって、ぼくたちの国には現在、そういうテーマで小説を書く作家がいるのだろうか。
いやいや、ぼく自身、そんなに大きなことを考える機会はめったにない。ゆうべも寝床の中で、窪美澄の『よるのふくらみ』を読みおえたばかり。「会いたかったで、圭ちゃん」のひとことが泣けた。
"Autumn" でも、いちばん印象にのこっているのは、そういう純粋な心と心がふれあう場面である(雑感2)。映画『君の名は。』もそうでしたね。
(写真は、宇和島市立明倫小学校の通学路に面した酒屋さんの倉庫。昔はここが酒蔵とは知らなかった。赤煉瓦がとても珍しかった)