ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

L. P. Hartley の "The Go-Between" (3)

 タイトルの意味は途中でわかった。それがレビューに書いた〈手紙の配達人〉。少しだけネタを割ると、〈秘密の手紙の配達人〉。と補足しただけで、ははあ、あの話ですね、とおおかた想像がつくことだろう。
 今でこそケータイ、スマホ、ラインなど便利な道具のおかげで、ぼくたちはいくら距離があっても、お互いのコミュニケーションに困ることはほとんどない。けれども、本書の時代は1900年。先進国イギリスでも、「テレビも無エ ラジオも無エ……電話も無エ」といった、吉幾三のあの歌に唄われているような状況だったようだ。
 おかげで、恋人同士の連絡もままならぬことが多かった。それが本書の場合、明らかにひとつの障害だった。じつはほかにもっと大きな障害があるのだが、その点は伏せておこう。とにかく、障害が大きければ大きいほど、恋のチカラは強まり、ふたりの心は、より美しく、より純粋になる。まあ、そんなお話です。つまりメロドラマ。
 だから、本書の映画化作品のタイトルが『恋』というのは一面、正しい。go-betweenの直訳「橋渡し」では、だれも映画館に足を運ばないだろう。
 だが、原作のほうは、主人公の Leo 少年が知らず知らず〈恋の橋渡し役〉を引き受けることで、「いやおうなく大人へと成長する通過儀礼をえがいた青春小説でもある」。この「いやおうなく」というのがポイントだ。まあ、「定番どおり」ですけどね。
 しかし20世紀初頭なら、あるいは本書が出版された50年代には、まだそういうパターンは確立されていなかったかもしれない。「無垢から経験へといたる過程」における大事件を扱った小説にどんなものがあるか、文学史の中で系譜をたどりながら本書を位置づける必要がありそうだ。でもこれ、ぼくにはちと荷が重いです。
 それより、型どおりであろうとなかろうと、「子供が大人になる」とはどういうことか。そもそも、それは可能なことなのか。そして子供とは? 大人とは? 本書を読みながら、ふとそんな疑問に駆られてしまった。「大人の目による人間観察の点ですぐれている」からである。
 映画は未見だが、映像を通じてそういう問題に取り組むのは、かなりむずかしいのではないかしらん。トリュフォーの『大人は判ってくれない』など、その点どうだったっけ。
 ともあれ、ぼくが本書を Leo 少年と同じ12歳のときに読んだとしたら、「大人の目」もへったくれもない。ただもう、ショックを受けただけのような気がする。そしてそれは、おそらく少年として正しい読み方だったのではないだろうか。
 やがて年齢的に大人となり、もういちど読み返したとき、なるほど、そういうことだったのかと実感する。それがひょっとしたら、読書に関して「大人になる」ということなのかもしれない。その意味でも、ぼくはこれを中1の夏休みにぜひ読みたかった!
(写真は、宇和島市元結掛(もとゆいぎ)の町内風景。左手角の散髪屋さん、ホリカワのおっちゃんにはとてもお世話になった。きのう紹介した相撲大会で負けたとき、「こうやったら勝てたのに」と身ぶり手ぶりで教えてくれた。散髪のときだけでなく、毎日のように漫画を読みに行った。そのホリカワのおっちゃんはとうに他界。散髪屋さんも閉店している)