ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The End of Days" 雑感(4)

 前回引用したように、茂木健一郎氏は、映画「この世界の片隅に」について論じた文の中でまず、「人間らしくあるためには、体験を共有しなければならない」と書いている。この冒頭の一節からして、ぼくは疑問に思った。はて、「人間らしくある」とは一体どういう意味だろう。
 その先を読んでいるうちに、それはどうやら、「誰もが『この世界の片隅に』生きている」ことを忘れないことらしい、とわかる。一方、「国や正義といった『大きな物語』」や、それからもちろん戦争は「人間らしい」ものではない、と茂木氏は言いたいようである。
 これがいかに粗雑な人間論であるかについては、前回述べたとおりだ。きょうは次の疑問点に移ろう。「体験を共有しなければならない」というくだりである。
 茂木氏は言う。「戦争というかたちで大きな歴史の歯車が回った時、人は何を見て、感じたのか。語り伝えること、耳を澄ますことの大切さは、誰もが抱く思いだろう」。つまり、戦争体験は語り継がれなければならない、というわけである。
 よく耳にする主張だが、ぼくはこれを、戦争に関する「体験重視主義」と呼んでいる。そしてそこには、戦争のことは実際に体験した者でなければわからない、という暗黙の前提があるように思える。事実、「戦争を知らない子供たち」のくせに、知ったふうな口をきくな、という上から目線の戦中派もいる。が、本当にそうだろうか。
 この論法で行くと、戦後生まれの日本人にとって、戦争とは「語り伝えること、耳を澄ますこと」によってはじめて、かろうじて理解できるもの、ということになる。けれども、戦争にかぎらず、実体験とはさほどに重いものなのか。
 ぼくがそう疑うのは、人間は自分自身、実際に経験していない事柄でも、それどころか、およそ体感しえないような抽象的内容についても思考を重ね、想像をめぐらすことができるからだ。知性、思索、想像力。これらもまた、物事を理解するうえで大いに役立つものである。それなのになぜ戦争にかぎって、茂木氏のように「体験重視主義」を唱える人が多いのだろう。
 いや、茂木健一郎氏は著名な脳科学者である。脳科学的に言えば、物事の理解には「見て、感じた」体験がいちばんだ、というれっきとした根拠があり、それにもとづいて氏は「体験を共有しなければ」と述べたのかもしれない。と、そんな想像をめぐらせば、氏の立場も理解できそうな気がする。が、それでもやはり、上のような疑問は残る。
 むろん、戦争は非常に特別な体験である。が、そのメカニズムについて「思考を重ね、想像をめぐらすこと」もまた、個々の体験と同様に重要なことだとぼくは考えている。具体的には、たとえば前回ふれた "Animal Farm" を読み、そこに描かれている人生の苦い真実を学ぶことだ。そういう知的検証を経ない「体験重視主義」は、一種のセンチメンタリズムに堕する危険性がある。
 茂木氏によれば、この「映画は決して声高にならず、やさしいささやきで、私たちに真実を伝えてくれる」。言いたいことはわかるが、こんな書き方からして、氏の言う「真実」とは、「知的検証を経ない、一種のセンチメンタリズム」の領域を出ないものではないか、という気がしてならない。
 閑話休題。"The End of Days" は、前回からそれほど進んでいない。もっか第3部だが、時代は1938年ごろ。第二次大戦前夜である。
 というわけで、これはぼくの予想にすぎないが、いよいよナチスの話になるのではないか。第1部で死んだはずの赤ん坊が、第2部では存命し若い娘に成長。しかし、ほとんど面識のない男に殺される。ところが第3部では生き残っている。その彼女の母親がユダヤ人なのである。
 ぼくはうっかり、第1部で早くもナチスがらみの話と勘違いしてしまったが、そのとき思ったことを書こう。上の若い娘の祖父は19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国の田舎町で、ユダヤ人排斥運動の一環としてポーランド系住民により惨殺される。以後、第2部でも、ちらほらユダヤ人差別の話が出てくる。これはおそらく史実を踏まえた内容ではないだろうか。
 つまり、ユダヤ人への迫害は、何もナチス・ドイツに始まったことではない。調べるのが面倒くさいので「相当昔から」としか書けないが、相当昔からヨーロッパ各地で人種差別が行なわれていたのではないか。
 とすれば、ドイツ人にとってユダヤ人虐殺は、ただナチスだけに責任があったわけではないことになる。Gunter Grass の "Crabwalk" でも、こうした点についての言及があった。ほかにもこの問題に関しては、ナチス以前にさかのぼって多くの研究がなされてきたものと想像する。
 ここでそんなことを今さらながら書くのは、先の大戦の戦争責任についてよく、ドイツ人はしっかり反省したが、日本人はまだまだ反省が足りない、と主張する人たちがいるからだ。ぼくはそういう意見を耳にするたびに、え、ドイツ人は本当に「しっかり反省した」のかな、と思う。中には「ナチスだけに責任」をかぶせてハイおしまい、というドイツ人もいるのでは、と疑っている。
 と、このように人種差別に関する根源的な問題について考えることもまた、戦争をめぐって「知的検証を経ない、一種のセンチメンタリズム」におちいらないことではないだろうか。
 フーッ、柄にもなくマジメな話ばかりで疲れてしまった。
(写真は、宇和島市神田川原(じんでんがわら)にあった貧乏長屋横の草むら。昔はここが畑で、上の竹藪も畑。二つの畑のあいだは土の崖だった。その崖を幼いぼくはある日、きょうこそは、と意を決して登りはじめ、みごと上の畑まで到達。わずか2メートルほどの段差だが、あのとき決心した瞬間は、いまでもはっきり憶えている)