ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Kurt Palka の“The Piano Maker”(2)

 今週は超多忙。もう一回だけ本書について駄文を綴らねばと思いつつ、なかなか時間が取れなかった。
 べつにたいした補足ではない。これは典型的な文芸エンタテインメントである。ヒロインの Helene は純真で、窮地におちいった彼女に救いの手を差し伸べる人びとも善良で純朴そのもの。こうしたキャラづくりはエンタテインメントでは当たり前で、自然に感情移入できれば何も問題はない。
 読者はもちろん部外者だから、物語の中に入ってヒロインを助けることはできない。けれども、ヒロインが助かってほしいと願うことはできる。助かるに決まっているとわかっていても、そう願わずにはいられない。そんな感情移入を誘うのが文芸エンタメ系作家の腕の見せどころである。その点、本書は十分、水準に達している。
 それゆえ、登場人物が善玉と悪玉にはっきり色分けされていても気にならない。悪玉にも、善玉の幸福実現をはばむ者としての存在意義があり、悪玉が悪玉であるほど善玉の危険が増し、そこからの脱出もスリルとサスペンスに満ちたものとなる。その点が本書は若干、物足りない。
 ともあれ、こういう作品は安心して楽しめるのでぼくは大好きだ。
 一方、同じく型どおりの作品でもまったく楽しめない、それどころか不愉快千万な読後感しかのこらないものある。ある一定の歴史観や政治的イデオロギーにもとづいて人間を善玉と悪玉に色分けし、悪玉を徹底的に断罪しようという意図で書かれた作品である。これは純文学風のシリアスなタッチのものが多い。
 さらに言うと、そういう「歴史観や政治的イデオロギー」は一種の正義感であり、作者は自分の信じる正義を読者に訴えようとしている。つまり、エンタメ系作家が読者の感情移入を誘おうとするのに対し、純文学の作家は、といっても偏った見方しか出来ないエセ純文学者は、読者に自分の正義という名の感情を押しつけようとする。どこかの国のノーベル賞作家もそうですな。ぼくは大嫌いです。
(写真は、宇和島市神田川原(じんでんがわら)から妙典寺前へと向かう道。昔は左側に駄菓子屋さんがあり、右側には小さな医院があった。ぼくは疫痢にかかり、もう少しで死ぬところだったそうだ)