本書の目玉のひとつは解剖学にかんする断章だろう。人体や内臓の標本を展示した博物館、17世紀の死体解剖の話など、いわば怖い物見たさも手伝ってかなり面白い。奇書と言ってもいいほどだ。が、それとタイトル "Flights" との関係はどうなのか。
そう疑問に思っていると、こんな文言が目についた。travels within the body of the preserved organism(p.160) なるほど、flight into the human body ということですな。
さらに、the great anatomical atlas と紹介された解剖学の古い文献によると、... the human body became some sort of mysterious procedure etched down to its very essence, relieved of easily spoiling blood, lymphs, those suspect fluids, the roar of life, that its perfect order had been revealed in the absolute silence of black and white.(p.213)
これをぼくは、「黒と白の絶対的な沈黙が広がるという内臓の世界こそ、じつは世界の本質である、と言いたげな断章」とまとめた。前回(3)の引用とあわせると、まさに論より証拠、「人間のすこぶる即物的、非精神的なとらえ方」である。
これほどの文学的な深みは、ぼくの読んだ今年のほかのブッカー国際賞最終候補作、Ahmed Saadawi の "Frankenstein in Baghdad" と Han Kang の "The White Book" からは感じられなかった。だから、"Flights" の受賞はまず順当な結果だろうと思います。
ここから先は、ぼく自身の勝手な感想。本書を読みおえた次の日、ぼくは初孫の初宮詣で鶴岡八幡宮を訪れた。近くの写真館で記念写真も撮ったのだが、その合間に本書をパラパラめくっていると、前回の引用箇所が目に止まった。Seeing only the world in fragments, there won't be any other one. Moments, crumbs, fleeting configurations ― no sooner have they come into existence than they fall into pieces. ... I see lines, planes and bodies, and their transformations in time. ... it's just three points: was, is and will be.
そうか、たしかに世界は断片(lines, planes and bodies)にしか過ぎない。こうして写真を撮ってもらっている今も一瞬の出来事(was, is and will be)。いずれ写真を見ながら、ああ、あんな時もあったな、とドラ息子たちは思い出し、こんな時もあったのか、と大きくなった孫は思うことだろう。そのとき、ぼくは写真の中にいるだけ。
そこでひらめいた。作者が人間を「すこぶる即物的、非精神的」にとらえるようになった背景には、そう思わざるを得ない、何かよほど悲しい体験があったのかもしれない。大国による侵略を受けつづけたポーランドの歴史も関係しているのかな。
お宮参りのあと帰宅。一杯やり、酔いが覚めたところでレビューを書きはじめた。結びは、ほんとに勝手な感想です。「不協和音だらけの人生への絶望と希望、嘆きと祈りがこめられているような気もする。この現実を知ってどう生きるか。読者にとっても旅の始まりである」。
(写真は、鶴岡八幡宮の祈祷所と息子夫婦)