ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Umberto Eco の “Baudolino”(3)

 もっか〈自宅残業〉で忙しく、Rebecca Makkai の "The Great Believers"(2018)のほうはやっと終盤が見えてきたところ。相変わらず☆☆☆で面白くない。ただでさえ遅読症なのに、ますます読む速度が落ちてきた。
 同書は1985,86年の過去編と2015年の現代編が交互に進む構成で、過去編のほうはもっぱらゲイとエイズの話。ゲイへの偏見、エイズにかんする無知が採りあげられ、シカゴに住む主人公 Yale の友人も次々にエイズに感染する。
 つまらないのはまず、この Yale と〈恋人〉Charlie の関係が、せいぜい痴情のもつれの程度にしかすぎない点である。ここ半年ほどのあいだに読んだ恋愛小説では、Lawrence Durrell の "The Alexandria Quartet"(1957-60)が断トツですばらしく(☆☆☆☆★★)、ついで、先日読んだばかりの Orhan Pamuk の "The Museum of Innocence"(2008)が強く印象にのこっている(☆☆☆☆)。ロマンスの要素にかぎっても、"Tha Great Believers" は両書に遠く及ばない。 

 

 それから、Yale は自分がやむなく取った行動や、周囲の軽はずみな、しかしこれまた無理からぬ言動によって、あらぬ誤解を招き、その結果、Charlie は自暴自棄におちいってエイズに感染、Yale もまたその恐怖におののいている。つまり、一種の性格悲劇と言ってもいい筋立てなのだが、この悲劇の掘り下げがまったくない。それどころか、Rebecca Makkai は政治的・宗教的な偏見や、無知、無関心、医療の遅れといった背景とともに悲劇を描こうとしている。そういう仕事は二流の作家がやることだ。そう考えると、☆☆☆からさらに減点してもいい。
 閑話休題。前回は、"Baudolino" の密室ミステリとしての側面に迫ってみた。ネタを割れないので、べつに「迫る」ほどのことでもなかったけれど。(スターを付けてくださった mitsuru_ougi さん、brownsuga さん、ありがとうございます)。
 軽いノリの流れで願望を述べておくと、これ、ジェームズ・キャメロン監督かリドリー・スコット監督あたりが映画化してくれませんかね。うまく編集すれば、話の錯綜した本書を超大作エンターテインメントに仕上げられるのではないかしらん。なにしろ、十字軍時代の冒険ファンタジー、「美女や怪獣も登場する歴史ロマン、戦争スペクタクル…など多彩な要素を盛り込んだ豪華絢爛、重厚な大河ドラマ」なのだから。
 けれども、ぼくがいちばん面白く思ったのは、これが現代のフェイクニュース花盛りの情報化社会を寓話的に描いたもの、とも読める点である。ふたたび拙文の引用で申し訳ないが、「何より特筆すべきは、主役たちが終始一貫、虚偽と欺瞞を自覚しながらフィクションを生み出すうちにそのとりことなり、ついには虚偽を虚偽ではなく真理と信じて追求しつづける点だろう。ウソから出たまこと、である」。
 未読だが、第7作の "Numero Zero"(2015)が、どうやらマスメディアによる情報操作を本格的に扱った小説らしい。大いに食指が動くものの、Eco の作品は積ん読だらけなので迷ってしまう。 

Numero Zero

Numero Zero

 

  たまたま今朝、某局の番組をぼんやり見ていたら、つぎは「フェイクニュース工場を直撃」という段になった。中身まで確認しなかったが、ぼくはこの局にかぎらず、新聞テレビなどマスメディア全体に相当な不信感をいだいている。
 一方、ネトウヨとか、ネトサヨという言葉もあるようだ。それがどんなものか、よろず世事に疎いぼくでも何となく知っているが、まあネットにもフェイクニュースを流す人たちが大勢いるのでしょうね。うん? 違う話かな。
 ぼくもしばしば勘違いをして、本ブログでも事実誤認のトンチンカンな記事を書いたことがある。気がついた範囲で後日訂正しているが、何が真実で何がフェイクニュースか、自分の目でたしかめ、自分の頭で判断しなければならない。えらく面倒な時代になりましたね。いやきっと、大昔からそうなんだろうな。