ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Akwaeke Emezi の “Freshwater”(2)

 世間は三連休だが、ぼくは例によって午前中は〈自宅残業〉。あしたもその日程です。そうしないと仕事が間に合わない。つくづく因果な商売だけど、それでもゆうべは、有楽町の超高級ホテルでもよおされた、勤務先に関係のあるパーティーに出席。無職なら口にしなかったはずの料理に舌鼓を打ち、ああ、これもめぐりめぐってこうなったのか、という思いに駆られてしまった。
 閑話休題。いま読んでいるのは、Max Porter というイギリスの若手作家の "Lanny"(2019)。彼の二作目で、処女作の "Grief is the Thing with Feathers"(2015)はガーディアン新人賞の最終候補作だったそうだ(未読)。
 むろん初見の作家だが、手を伸ばしたきっかけは、これが今年のブッカー賞ロングリストにノミネートされるのでは、と気の早い現地ファンのあいだで取りざたされているからだ。そんな下馬評を頼りに読むのはこれで三冊目。が、これもいまのところ、あまり面白くない。
 途中経過としては、先週読みおえた表題作のほうがまだよかった。二作、いや三作に共通して言えるのは、どれも話をひねりすぎている。Ali Smith の "Spring"(2019 ☆☆☆)は、「時間の流れが錯綜し、断片的な逸話が入り混じる複雑な展開」で、いかにも純文学の作品らしいけれど、底流にあるのはリベラルな政治観にもとづく、善玉・悪玉の色分けがはっきりした単純な移民問題。ほんとうは単純な問題ではないはずなのに、それを色めがねで見ることで単純になってしまう。
 "Freshwater"(2018 ☆☆☆★)は政治とは無関係なので、"Spring" よりは読みやすかった。雑感でもふれたとおり、かの『ジキル博士とハイド氏』あたりを鼻祖とする多重人格テーマの物語で、少女の心にべつの人格が同居することで起きるヘンテコな事件が、途中までまずまず面白い。
 が、たぶんぼくの勘違いだろうけど、その意図が見えてきたところで飽きてしまった。それでも我慢してつきあっていると、最後に出てきたのがこんな一節である。I am here and not here, real and not real, energy pushed into skin and bone. I am my others; we are one and we are many. .... I am a village full of faces and a compound full of bones, translucent thousands. Why should I be afraid? I am the source of the spring. All freshwater comes out of my mouth.(p.226
 え、こんな結びとはね、とガックリきた。なんだか深遠な話のようだけれど、要は、「揺れ動く娘心を多重人格に仮託して描くという」だけ。もちろん、ぼくの色めがねを通して見れば、という条件つきですが。
 多重人格というからには、『ジキル博士』のように図式的であってもいいから、人間の多重性について突っ込んでほしい。多重性とは、簡単に言えば「あれか、これか」と悩むことだ。それも『ジキル博士』における善悪をはじめ、人生の厄介な問題について思い悩む。図式ついでに言えば、「トルストイドストエフスキーか」。答えのない二者択一問題である。
 そういう目で "Lanny" を見ると、ううん、まだテーマもよくわからないけど、わからないなりにイヤな予感がする。ロンドン近郊の村に引っ越してきたサラリーマンの息子 Lannyと、彼に絵を教える画家 Pete の交流のあいま、イギリス建国当初から村にいるという伝説の人物 Dead Papa Toothwort が村人たちの会話に耳を傾ける。そんな話が「答えのない二者択一問題」にまで発展するとは、とても思えないのであります。
(写真は、愛媛県宇和島市天赦園の白玉上り藤。昨春の帰省時に撮影)

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