ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

サキの『ひらいた窓』

 きょうも午前中は〈自宅残業〉。昼寝をしてから、きょうこそ Max Porter の "Lanny"(2019)を片づけようと取りかかったものの、途中でまた、眠りこけそうになった。つまらないからだ。イギリス現地ファンのあいだでは、今年のブッカー賞ロングリスト〈候補作〉に挙げられているのだけど、ホンマかいな。
 おもしろくない最大の理由は、物語性に乏しいこと。むろん、最後の最後で、ええっとびっくりするような展開があるかもしれない。でも、そこまで達するのは、早くてあしたあたりでしょうか。
 じつは仕事で読んでいるのも評論ばかりで、こちらはべつの意味で退屈。そんなこんなで、何気なく手を取ったのが "The Best of Saki"(Picador 版)。パラパラめくっていたら、"The Open Window" が目についた。たしか高3のとき、少しだけリライトされたものを読まされた憶えがある。当時、ぼくの属していた文学サークルでも話題になり、みんなこぞって和訳を試みたものだ。
 そのとき、新潮文庫版で翻訳を読んだ才気煥発な同級生が(彼女は京大に現役合格)、「あの出だしは何よ」とのたまわったものだ。ぼくの訳にかんする感想を聞いた記憶はない。たぶん拙劣すぎてコメントに値せず、だから何も言われなかった、というのが真相だろう。
 そんなことを思い出しながら、きょう、つれづれなるままに試みたのが、以下の拙訳。まだ気になる箇所もいくつかあるが、あとでまた訂正すればいい、とさじを投げた。下手くそ、と座布団が飛んできそうですな。 

The Best of Saki: H.H. Munro (Picador)

The Best of Saki: H.H. Munro (Picador)

 

 「伯母さまなら、もうじき下りてまいりますわ、ナッテルさん」とても落ち着きはらった十五歳のレディが言った。「それまで、わたくしで我慢なさってくださいね」
 フラムトン・ナッテルは、ぴったりの返事はないものか、しきりに思案した。いま、目の前にいる姪のご機嫌をうまくとりながら、あとで姿を見せる伯母を不当に軽んじない答え。いつにも増して疑問が頭にうかんできた。こんなふうに、立て続けに見ず知らずの他人の家を正式に訪問しても、ノイローゼの治療にはあまり役立たないのではないか。いちおう、治療中ということなのだけれど。
「どうなるか知れたものよ」と姉に言われたのは、この田舎の静養先に移り住む準備をしていたときだ。「向こうで閉じ籠もりっきりで、だれともひとことも口をきかなくて、ノイローゼがますますひどくなるに決まってるわ、ふさぎ込んじゃって。とりあえず、紹介状はぜんぶ書いてあげるけど。あちらで知ってる人がいるから。たしかわたしの記憶では、かなり親切な人もいたわね」
 フラムトンは首をひねった。その紹介状の一通をいまから提出しようとしている相手のミセス・サップルトンは、親切な人、という部類に入るのだろうか。
「こちらでご存じのかたは多いんですの?」姪が尋ねてきた。無言の心のふれあいはもう十分、と判断したようだ。
「いや、まあひとりも」フラムトンは言った。「わたしの姉が昔、こっちに住んでたんですよ、ほら牧師館に。四、五年前のことだけど。その姉が紹介状を書いてくれましてね、こちらにお住まいの何人かに宛てて」
 最後の言葉には、後悔の念がはっきりと聞き取れた。
「それなら、わたくしの伯母のことは、ほとんど何もご存じないわけね」泰然自若としたレディが続いて言う。
「ええ、お名前とご住所だけで」訪問客は認めた。そこで首をかしげる。ミセス・サップルトンは結婚しているのだろうか、それとも、いまは未亡人なのだろうか。室内の名状しがたい何かが、男性が住んでいることを匂わせているような気もした。
「伯母は、たいへんな悲劇に見舞われたのです、つい三年前に」と娘。「あなたのお姉さまが、こちらにいらしたあとじゃないかしら」
「悲劇ですって?」フラムトンは訊きかえした。こんな静かな田舎に悲劇とは、どうも場違いな感じがする。
「あの窓を開けっぱなしにしているわけ、不思議に思われるかもしれませんわね、十月の日暮れどきだというのに」と言いながら、姪は庭に面した大きなフランス窓のほうを指さした。フランス窓とは、庭に出入りできるガラス戸のことだ。
「かなり暖かいですからね、この時期にしては」フラムトンは応じた。「でも、あの窓が悲劇と何か関係があるんですか」
「あの窓から出て行ったのです、ちょうど三年前のきょう、伯母のご主人と、伯母にふたりいた弟たちが、その日の猟をしに。それが二度と帰ってこなかった。荒野を横切って、お気にいりのシギ撃ちの猟場に行こうとしていたとき、三人とも、危険な沼地に飲み込まれてしまいましたの。なにしろ、あの夏はひどく雨が多かったものですから。ほかの年なら安全だったところが、突然、なんの前ぶれもなく崩れ落ちてしまった。死体は結局、見つかりませんでした。そこが事件の恐ろしいところですわ」ここで娘の声は落ち着きをうしない、ためらいがちな人間らしい口調になった。「かわいそうに伯母さま、それからずっと心の中で祈ってるの、いつかみんな帰ってくるようにって。いっしょにいなくなった、小さな茶色のスパニエルも。全員そろって、ちょうど昔のようにまた、あの窓から中に入ってくる日を待ってるのよ。だから夕方になると、窓を開けておくの、すっかり暗くなるまで。ほんとにかわいそうな伯母さま。何度も話してくれたわ、どんなふうにみんなが出かけたか。ご主人は腕に白いレインコートを引っかけてた。末っ子の弟のロニーは歌を唄ってた。『バーティ、どうしてぴょんぴょん跳ねるんだい』いつもそうやって、伯母さまをからかってたらしいわ、伯母さまの気に障るのが楽しいからって。それでほら、ときどき、いまみたいにしんと静まりかえった夕暮れともなると、なんだか不気味な気配がしそうなのよ、みんな、あの窓から入ってきて……」
 小刻みにぶるっと身体をふるわせ、言葉を途切らせた。やがてフラムトンは、ほっと胸を撫でおろした。応対に出るのが遅れて申し訳ございません、と早口でしきりにお詫びを述べながら、伯母があたふたと部屋に入ってきたのだ。
「ヴェラがきっと、楽しいお話をして差し上げてたんじゃないかしら」と言う。
「とってもおもしろかったですよ」フラムトンは答えて言った。
「ひらいた窓のことは、お気になさらないように」と、はきはきした声でミセス・サップルトン。「うちの主人と弟たちが、もうすぐ猟から帰ってきますから。いつもあそこを通って中に入ってくるんですのよ。きょうは沼地にシギを撃ちに出かけたんです。だから、ただでさえ粗末なカーペットが台なしになってしまいますわ。殿方って、そんなものじゃございません?」
 それから楽しそうに、猟のことや、鳥の数が減ったこと、冬場にカモがどれくらい姿を見せそうかといったことなど、べらべらとまくし立てた。フラムトンの耳には、ただもう恐ろしい話ばかりだった。もっと当たり障りのない話題に切り替えようと、懸命に努力してみたが、成果は少ししか得られなかった。フラムトンは気づいていた。女主人が注意を向けてくるのはほんの一瞬で、その目は絶えず、こちらを素どおりして、ひらいた窓、そして外の芝生へとさまよっている。こんな悲劇の記念日にここを訪れたとは、運のわるい巡りあわせだったとしか言いようがない。
「じつはいま、医師たちに口をそろえて言われてるんですよ、ちゃんと休息を取るように、心を騒がせることがないように、激しい運動のたぐいはいっさい避けるようにって」とフラムトンは告げた。世間にかなり広まっているのとおなじ思い違いをしていたのだ。赤の他人や、たまたま知りあった人は、いろいろな病気とその原因、治療法について根掘り葉掘り聞きたがるものだ、という錯覚である。「食事という点になると、それほど見解は一致してませんけどね」フラムトンは説明をつづけた。
「あら、そうですの?」とミセス・サップルトンは言ったが、あくびが出そうな一瞬、それをこらえて発したにすぎない声だった。と、そこでぱっと明るい顔になり、目も光らせて聞き耳を立てた。が、フラムトンの話に興味を惹かれたのではない。
「やっと帰ってきた!」ミセス・サップルトンは大声で言った。「ぎりぎり間にあったわ、お茶の時間に。目元まで泥だらけ、なんてひどい格好でなきゃいいんだけど」
 かすかに身を震わせるフラムトン。同情と理解の意を伝えようと、姪のほうをふり向いた。娘は目に茫然と恐怖の色をうかべ、ひらいた窓の外をじっと眺めている。言い知れぬ不安に冷水でも浴びたようなショックを覚え、フラムトンは椅子に腰かけたまま、娘とおなじ方向を見やった。
 深まる夕闇のなか、向こうの芝生を横切ってこちらへ歩を進める三人の姿があった。三人とも小脇に銃をかかえ、ひとりはおまけに肩の上に白いコートを、いかにも重たそうに引っかけている。くたびれたようすの茶色いスパニエルが、三人の足元に寄り添っていた。足音ひとつ立てず、窓のほうへ近づいてくる一行。ややあって、若々しい、かすれた歌声が薄闇をついて聞こえてきた。「言っただろ、バーティ、どうしてぴょんぴょん跳ねるんだい」
 フラムトンは、狂ったように帽子とステッキにつかみかかった。玄関のドア、砂利を敷いた邸内道、表門が、しゃにむに退散するうち、次々とぼんやり目に止まる。自転車に乗って道路をやって来た男が、あわや衝突しそうになるのを避けようと、生け垣に突っ込んでしまう破目になった。
「ただいま、ばあさん」白いレインコートを肩にかけた男が、窓から入ってくるなり言った。「すっかり泥だらけになっちまったけど、おおかた乾いてるよ。あれはだれだい、みんなが帰ってきたのと入れ違いに、ここから飛び出していった男は?」
「すごく変わった人よ、ナッテルさんとかいう」ミセス・サップルトンは言った。「ご自分の病気のことしか話せなくて。それに、さようならとも、すみませんのひとことも言わずに、あわてて出て行ってしまったわ、あなたが帰ってきたとたん。幽霊でも見たんじゃないかと思えるくらい」
「スパニエルのせいだったんじゃないかしら」姪が落ち着いた声で口をはさむ。「犬が怖いっておっしゃってたから。いちど墓地まで追いかけられたことがあるんですって、どこかガンジス川の岸辺で、野犬の群れに襲われて。掘ったばかりのお墓の中で、一夜を明かすことになったそうよ。すぐ頭の上では、たくさんの犬が歯をむいてうなったり、牙をむき出したり、泡を吹いたり。そんな目に遭ったら、だれだって怖がり屋になってしまうわよ」
 即興で作り話をするのが、娘の十八番だった。