ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jokha Alharthi の “Celestial Bodies”(1)

 楽あれば苦あり。フランス旅行が一睡の夢のように終わったあと、帰国した翌日からボチボチ仕事を始め、今週はけっこう忙しい。といっても、自分で課したノルマをこなすだけなので、実際には、少し苦あり。
 旅行中、バッグの底に忍ばせていた Jokha Alharthi の "Celestial Bodies"(原作2010、英訳2018)は結局、ほとんど取り出すことがなかった。それでも帰りの機内で手に取ってみると、あ、これはレビューで使えそう、と思ったくだりに出くわした。以下は、そこから我田引水、でっち上げた拙文である。
 読了したのは昨晩。ご存じ今年のブッカー国際賞受賞作で、原作はアラビア語。作者はレバノン出身の女流作家とのことだ。 

Celestial Bodies

Celestial Bodies

 

[☆☆☆★] 書中、一ヵ所だけ、天体ならぬ「天球」という言葉が出てくる。夫が妻を自分の軌道に乗せて制御を図るくだりだが、考えてみればビッグバンで宇宙が誕生、それが人類誕生につながったのだから、ひとはそれぞれ一個の星だといえなくもない。その星々がなんらかの力学で結びつき、あるいは離れ、集団を形成しては対立するうち、さまざまな物語が生まれる。確たる根拠はないものの、もし本書における数々のホームドラマがそうした〈星物語〉であるとするならば、さぞ壮大で深遠な傑作となりえたかもしれない、と想像の羽をひろげてしまった。が、上述の夫婦のエピソードから推し量れるとおり、実際はごく平凡で日常的な家族の物語にすぎない。舞台がオマーンの小村という点だけが目新しい、といっても過言ではない。夫婦のほか、親子、兄弟姉妹、そのまた配偶者や恋人、祖父母、女中とその一家などなど、入れ替わり立ち替わり、それぞれ断片的に身の上話を語る。そのどれもが、まるでひと筆書きのように過去の回想から現在の報告まで切れ目なく連続。家族愛や夫婦愛、恋愛といった光の要素と、それにともなう悲哀と苦悩、確執など影の要素が示される。こうした光と影の対比は、家庭小説定番のテーマながら、なかなかいい。ところが人物こそちがえ、冒頭から結びまで終始一貫、似たり寄ったりの話ばかり聞かされた日には、さすがに途中で飽きてしまう。オマーン近現代史が早わかりという側面もあるものの、ダイナミックな展開とはならず、金太郎飴のような小話の山のなかに埋没。傑作になりそこねた水準作である。