ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Umberto Eco の “Numero Zero”(2)

 今週初め、Patrick Modiano の "Sundays in August"(1986)に取りかかった。冒頭は、主人公の中年男がニースで旧知の男と再会する場面。二人は昔、同じ一人の女を愛していたが、今では二人とも女と縁が切れている。
 と、どうやらそんな話らしいとわかったところで、今年のブッカー賞最終候補作、Salman Rushdie の "Quichotte"(2019)が手元に届いた。おそるおそる手に取ってみた。というのも、1冊だけ読んだことのある Rushdie の旧作、"Midnight's Children"(1981 ☆☆☆☆★)が、内容もさることながら、英語的にもけっこうむずかしかった記憶があるからだ。 

 一方、大好きな Modiano のほうは薄いし簡単。せっかくまた〈モディアノ中毒〉がぶり返してきた矢先なのに、分厚い Rushdie に乗り換えたあげく四苦八苦するのはイヤだな、と危惧した。
 ところが、いざ試読してみると拍子抜け。え、これ、ほんとに Rushdie なの、と思うくらい読みやすい英語になっている。それに、面白い。これなら仕事の合間でも行けそう、というわけで、ほんとに乗り換えてしまった。
 今のところ、☆☆☆★★★は確実。それどころか、★をひとつ追加して、久しぶりに☆☆☆☆でもよさそうな展開だ。
 最初はタイトルどおり『ドン・キホーテ』のパロディーかと思った。70歳のインド系老人が主人公で、薬のセールスをしながらアメリカ全土のモーテルを転々とするうちにテレビを見過ぎ、現実とフィクションの区別がつかなくなる。やがて人気トークショーの美人キャスターにひと目惚れ。そのハートを射止めようと、彼女の住むニューヨークに出かける。
 わかりやすい話だな、と思ったら、さすがは Rushdie、それから二転三転というか、次から次に sprawl していき、相当に入り組んだメタフィクションとなっている。しかも、繰り返すが、面白い。
 ある作中人物は、現代をこうとらえている。.... the age of electronically propagated hysteria, in which words have become bombs that blow up their users, and to make any public utterance is to set off a series of such explosions. Our age, AG [After Google], in which the mob rules, and the smartphone rules the mob.(p.258)
 べつに目新しい指摘ではないが、こうした新型の大衆ヒステリーの時代においては、メディアによる情報操作にますます目を光らさなければならない、と思った。先週、Umberto Eco の "Numero Zero"(2015 ☆☆☆★★★)を読みおえたばかりだからだ。  すでに紹介した以外にも、同書には、現在の東洋の島国の状況について述べているのではないか、と錯覚しそうな箇所が多々あった。Newspapers teach people how to think.(p.108) These days, you know, to answer an accusation you don't have to prove it's wrong, all you have to do is undermine the authority of the accuser. .... You can strangify whatever he does.(p.145)Not that you will say this, readers will figure it out. So, ...., work up these details to create a portrait full of dark innuendo, and that will take care of him. Out of a non-story we've created a story.(p.146)Let's just stick to spreading suspicion.(p.151).... we just want to float the idea, the spectre, create a shiver, a sense of unease ....(p.172)
 代名詞の指示内容など詳しい説明は省くが、ぼくは上のくだりを頭に置いて、「火のないところに煙を立てる〈あおり記事〉で印象操作に邁進」とレビューにまとめた。
 昨今、例の事件後、どこのテレビ局でも、あおり運転についてはよく話題にしているけれど、〈あおり記事〉に関する報道があったとは寡聞にして知らない。これにはぼくでもわかる簡単なカラクリがある。どんなトピックでも、「なんとか新聞によりますと」とニュースソースをもっぱら新聞に頼っている以上、テレビ局が率先して新聞批判なんてするはずがない。
 そこでテレビや新聞以外に情報を求めることになるわけだが、ネットにも大手メディアの発信する情報があふれている。その中には、前にも書いたとおり、「事実を事実のまま報道しても記事にならない。そこに〈角度〉をつけないといけない」「エビデンス? ねーよそんなもん」という方針(?)の新聞が発したものもある。そして何より、今や the age of electronically propagated hysteria .... in which the mob rules なのだ。まさに真偽の区別がつきにくい時代である。Eco があの世で "Quichotte" を読んだら、ニヤっと笑いそうですな。
(写真はパリの凱旋門。先月撮影)

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