このところ新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、事態は悪化の一途をたどっている。そこで思い出したのが「十日の菊」という言葉。
いま『大辞林』をひくと、「時期遅れで役に立たないもののたとえ」とある。つまり、賞味期限切れ、である。転じて、ある時には役に立っても、その時期を過ぎると無用になるもの、という意味で使ってもいいのではないか、とぼくは思っている。
たとえば休校措置のことだが、その是非をめぐる判断は、2月と現在とではずいぶん異なっているようだ。ウイルスへの認識が深まったせいか、世界各国の対応が伝えられたせいか、いまでは学校や家庭における混乱よりも、どうやら学校再開の安全性のほうが主に話題になっている。少なくとも、「あまりにも場当たり的。すぐに撤回すべきだ」と休校要請に猛反対する人はいない。情勢の変化によって意味を失うような主張は、まさに十日の菊である。
マスコミの報道もそうだ。先月イギリスがまだ一斉休校に踏み切っていなかった当時、某誌は新聞広告の見出しを読むかぎり、ジョンソン首相の対策を称賛しているかに思えたものだ。それが今週号では「コロナ戦線異状あり」。イギリスの異状についての言及があるかどうかは不明だが、広告に載っていないことだけはたしかである。同誌の先月の記事もまた十日の菊になってしまったようだ。
一方、"We" のように古典的な文学作品には、時代の変化に耐える真理が示されている。だからこそ古典たりうるのだ。男は女の誘惑に弱い、というのはアダムとイヴの昔から変わらぬ事実だし、聖人君子でもないかぎり、百年たっても人は感情を自在には抑制できないだろう。"We" でまず読みごたえがあるのは、そうした人間の真実を土台にしながらディストピアを描いている点である。(この項つづく)
(写真は、石川県ヤセの断崖につづく遊歩道から眺めた風景。2月に撮影)