ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “A Fable”(2)

 その後、腰の違和感はだいぶ薄らいできたものの、曾野綾子の言うとおり「すべての変化は予兆」。将来ほんとうに恐ろしいことになるかもしれない。そうならないよう、毎日ストレッチに励んでいる。
 腰が気になり読書から遠ざかっているあいだ、これもやはり予兆かと思ったのだが、ぼくの趣味のうち、最後にのこるのは音楽鑑賞かもしれない。いまのように海外の純文学を英語で読む気力がうせ、昔の恋人ミステリに戻ったり、まだ本格的に読んだことのないSFに浮気したり、おなじ純文学でも日本のものに専念したりするうちに目がわるくなり、すると映画を観る気もしなくなり、やがて音楽を聴くだけになる。そのとき、どんな歌や曲を聴いているだろうか。
 ともあれ、昼の部のBGMはもっかジャズの番。手持ちのCDの3巡目である。それも天井近くのラックに並べている「2軍」。いままであまりピンと来なかったものだ。Bill Evans は大好きだが、今回も "Explorations" や "Alone Again" などは眠かった。ところが、Charles Mingus の "Pithycanthropus Erectus" には驚いた。こんなに面白い曲集だったとは。が、なにがどう面白いか、実質的にジャズ3年生のぼくにはうまく説明できない。  

Pithycanthropus Erectus

Pithycanthropus Erectus

 

 ただ、とにかく眠い、よく分からない、としかずっと思えなかったものが、ある日突然、面白くなる。そんなことは音楽でも文学でもよくあることだ。ブルックナーがそうだったし、いまハマっているモーツァルトの歌劇もそう。
 Faulkner の一部の作品もそうだ。この表題作は読みはじめたときから、1ヵ月はかかるなと思った。いくらペースを上げようとしても、字面はともかく、なんとも意図を読み取りにくい箇所がつぎつぎに出てくるからだ。そこで毎日、少しずつ読むことにした。2週間ほど中断もした。
 前回やっとレビューらしきものをでっち上げたあと、米アマゾンのレビューを斜め読みしたところ、it is much easier to read(than novels like "As I Lay Dying" and "The Sound and the Fury")とあるのにはガクっとしたが、I had to read and re-read numerous sections of this book hoping to understand what Faulkner was getting at with this story and sadly, I never did get it. という感想にわが意を得たり。ネイティヴでもそうなんだ、とひと安心。
 本書が難解な理由はいくつかあるが、そのうち初歩的なものは構文である。なかでもレビューでふれたように、とにかく否定表現が多い。「AでもなくBでもなく、CでもなくてD」どころか実際は、DでもなくEでもなく、といった調子でえんえんと続く。そのBなりCなり途中で注釈が混じり、それがまた、AでもなくBでもなく、という否定の挿入句になっている。AだけでなくBだけでもなく、というパターンもある。その結果、ワンセンテンスがやたら長くて複雑なものとなり、not (only) A but (also) BのBがやっと出てきたときには、え、これはなんの説明だっけ、と前を読み返すこともしばしば。
 Faulkner の長編を読むのはこれで通算12冊目だが、こんなスタイルは初めてだ。いったいどうしてだろう、なぜ Faulkner は脱線とも思えるような回りくどい書き方をしたのか。それが分かるまで、分かったつもりになるまで、ほんとうに退屈だった。(この項つづく)