ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Khaled Hosseini の “The Kite Runner”(3)

 この数日風邪気味だったがどうやら復調したようなので、前回のつづきを。タリバンはなぜ復権したのか。アフガニスタンでは西欧型の民主主義は実現可能なのか。本書にかぎらず、そんな関心で小説を読むのは邪道だが、「いまの日本の状況、ひいてはぼく自身の生きかたを考えるうえで」、結果的に得るものはあったと思う。
 その報告の前にまず、Khaled Hosseini はいまでも読む価値があるか、という第三の関心のほうから述べておくと、ずばり大いにあり。「道徳的煩悶という古くて新しい、人間にとって永遠の課題が提出されている」がゆえに、「本書の内容はいっこうに古びていない」。つまりこれは一過性のベストセラーではなかったのだ。
 主人公 Amir は、嘘と裏切り、その隠蔽という道徳的な罪を犯し、それから逃れようとしてアメリカに移住する。For me, America was a place to bury my memories.(p.129)America was a river, roaring along, unmindful of the past. I could wade into this river, let my sins drown to the bottom, let the waters carry me someplace far. Someplace with no ghosts, no memories, and no sins.(p.136)
 もちろん大筋としては、戦禍を逃れる難民の物語があるのだけれど、それだけでなく道徳的な罪や良心の呵責という観点から難民自身の個人的な心の内側にわけいっていく。数ある難民や移民を扱った小説のなかでも、こんなアプローチの作品は希少ではないだろうか。
「それでいて理に落ちず、文字どおり波瀾万丈、愛と友情、涙の感動巨編に仕上がっている点は驚嘆に値する」。まさに屋上屋を架す賛辞だが、これだけなら情勢が激変したいま、とてもいい話だけど現実にはちょっとね、と思ったかもしれない。ぼくにはやはり、「道徳的煩悶劇」がいちばんの読みどころで、「この激しい心のドラマにおいては、ソ連軍の侵攻やタリバンによる支配といった歴史的大事件でさえ、極論すればBGMにすぎない」。
 そのソ連軍侵攻だが、本書を読むかぎり、それがどうやら、以後今日までつづく大混乱の原因のようだ。Amir によれば、1973年に起きたクーデターで王政から共和制に移行したのが the beginning of the end (of our way of life) であり、The end, the official end, would come first in April 1978 with the communist coup d'état, and then in December 1979, when Russian tanks would roll into .... , bringing the death of the Afghanistan I knew and marking the start of a still ongoing era of bloodletting.(p.36)
 べつにほかの史料を読んだわけでもないので断定は避けるが、この記述はぼくにはかなり正しいように思える。共和制時代もふくめ、ソ連軍侵攻までは比較的のどかで平和な時代がつづいていた、というのもおそらく史実どおりではないだろうか。
 むろんその平和な時代にも、身分差別や下層民の貧困などの問題はあったはずだが、本書によれば、当時のアフガニスタンでは、おおむね一般庶民は主人を敬い、主人は平民を思いやるという伝統、our way of life があったようだ。少なくともそれが本書の小説世界の基調になっている。それはどうやら、確固たる権威の持ち主が権力をにぎり、善政を敷くというシステムのようである。
 その権威と権力がソ連軍侵攻によって消滅し、ソ連軍撤退後、権威と権力の空白が生じたところへ軍事的にもっとも強力な集団が優位に立つ。それが本書で描かれているタリバンの台頭であり、最近の復権もおそらく同じパターンのような気がする。
 それは同時に、西欧型の民主主義が彼の国では、もしかしたら付け焼き刃だったかもしれない、ということでもある。これも本書を読むかぎりの話だが、「確固たる権威の持ち主が権力をにぎり、善政を敷くというシステム」のほうが彼らの国民性に合っているのでは、と思えてならなかった。
 ひるがえって、「いまの日本の状況、ひいてはぼく自身の生きかた」はどうか。コロナ感染者数の増減で右往左往しているかのような日本人にとって、いちおう軸足であるはずの民主主義は付け焼き刃ではなく、その長所も欠点も完全にわかっているもの、と言い切れるだろうか。そう疑いながらも、多少はコロナを気にするぼくには、自由を真に理解する頭と、自由を守りぬく気概があるだろうか。コロナにかぎらず、この5年間くらいのあれやこれやの騒動を思いうかべても、福田恆存のつぎの言葉は、今日の日本の状況に恐ろしいほどに当てはまる。
「私達の政治体制として民主主義以外のものは考へられない。とすれば、政治や政治理念だけで、今日の政治的混乱を処理する事は不可能だといふ事になる。恐しいのは利己心と怠惰と破壊と、そしてそれらを動機附けし理由附けする観念の横行である。考へるとは今ではさういう観念を巧みに操る事を意味する様になつてしまつた。さういふ世の中で本当に物を考へ、物を育てて行く事がどんなに難しい事か」。
 ぼくもこの "The Kite Runner" を読みながら、「本当に物を考へ」ることのむずかしさを、本書の舞台から離れていろいろ思案するうちに、あらためて実感した次第。邪道の読みかたかもしれないが、「結果的に得るものはあった」ようだ。

(下は、この記事のBGMにつかったCD)