ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Orhan Pamuk の “The Black Book”(1)

 数日前、やっと Orhan Pamuk の "The Black Book"(1990, 英訳2006)を読了。長い中断があり、読みおわってからも、すぐにはレビューを書く時間が取れなかった。はて、どんなレビューもどきになりますやら。

[☆☆☆☆★]「おれはおれでありたい。しかし、おれはだれだ」。こうしたアイデンティティの問題は、ひとつには、グレゴール・ザムザが毒虫に変身した朝からはじまった。本書の主人公、イスタンブールの弁護士ガーリップもある日突然、妻のリュヤーが家出し、いとこの新聞記者ジェラールも同時に失踪して以来、この現代文学でおなじみの問題に直面することとなる。ガーリップはふたりの居所の手がかりをつかむべく、ジェラールの残した膨大な量のコラムを読みかえすが、どのコラムも同工異曲。ガーリップの回想ともども、アイデンティティの変容と確立という主旋律の変奏曲がつぎつぎに奏でられる。ミステリ仕立てなのに物語性は度外視され、直線的な展開は皆無。いっこうに出口の見えない世界はカフカの作品同様、人間一般の実存の不安を指すものだが、むしろ都市と国家の特殊性の証左というべきかもしれない。新旧東西、異文化の交差する街イスタンブール。本書の劇中劇で描かれているとおり、第一次大戦後のオスマン帝国解体以来、混沌につぐ混沌に満ちた国トルコ。「アイデンティティを保持しなければ、都市も国家も民族も消滅する」。こうした彼の街、彼の国ならではの実存の不安こそ、じつは本書の真の主旋律ではあるまいか。オルハン・パムクは、まさしく栄冠にふさわしい国民作家なのである。