ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Laird Hunt の “Zorrie”(2)

 きのうは思いのほか時間が取れ、Sarah Waters の "Affinity"(1999)を100ページほど進むことができた。おかげで4部構成の第3部まで到達(後記:この記事を書いた翌日、5部構成と判明)。やっと目鼻がついてきた。
 この邦訳はいま調べると、2003年と2004年の国内のミステリ・ファン投票でそれぞれ1位を獲得している。2年にまたがったのは、対象期間のちがいによるものだろう。
 それほどの人気作なのだが、ぼくにはいまのところ、その理由がどうもピンとこない。服役中の霊媒師 Selina Dawes の行動記録と、刑務所を再三訪れ、Selina に関心を寄せる娘 Margaret Prior の手記が、1872年と1874年の2年間隔で並行して進み、ふたりの心が次第に通じあうという流れで、なにも全体を4分割しなければならないほど大きな場面変化があるわけではない(後記:5分割でした)。Selina の服役につながった降霊術がらみの事件にしても、オカルトっぽいだけで、べつにどうってことはない。裁判のようすもリーガル・サスペンスらしい盛り上がりに欠ける。これならいっそ、なんだか近いうちに、大昔翻訳で読んで以来とんと縁のない19世紀の古典に取り組んでみたくなってきた。
 とそんな感想をいだくのは、ぼくがもはやミステリ・ファンではない証しかもしれない。それに最大の山場はまだこれからのようだ。第3部のおわりでタイトルの affinity にかんする記述があり、Selina と Margaret の関係が第4部で劇的に変化しそう。きっとそこに人気のゆえんもあるのだろう。
 閑話休題。ずいぶん間があいてしまったが、表題作は去年の全米図書賞の発表直前、下馬評で1番人気と知り大急ぎで読んだものである。

 しかし結果は、あえなく落選。当てがはずれ、すっかり気が抜けてしまい、みごと栄冠に輝いた "Hell of a Book" もその後入手したものの、いまだに読む気がしない。現代の作品には期待を裏切られることが多いからだ。
 これはざっとした印象にすぎないのだが、最近の全米図書賞の受賞作は、人種差別やLGBT、マイノリティといったトピカルな題材を扱ったもの、あるいは、メタフィクションのように技巧的に創意工夫を凝らしたものが多いような気がする。ところが、"Zorrie" はそのどちらでもない。ずばり、それが敗因だろう。
 Zorrie は20世紀なかば、アメリカ中西部の田舎町で生まれ、「幼いころに両親を亡くし、厳格な伯母に育てられ」、「工場勤務ののち農家に嫁ぎ、子宝には恵まれず、夫の死後農場経営に着手」といった経歴の持ち主で、ただもう「勤勉、誠実、純真そのもの」。黙々と働く女性である。未亡人となってから浮いた話もなくはないけれど、結ばれることもなく消えてしまう。ちょっとちがうが、ぼくはチェーホフの『かわいい女』を思い出した。
 ご存じのように、オーレンカは3人の男と出会い、それぞれの相手に献身的に尽くす「かわいい女」である。テレビであれこれご意見を述べる才媛才女とは、少なくともイメージ的には正反対。同様に、Zorrie も政治や経済などトピカルな話題はいっさい口にせず、ひたすらまじめに働きつづける。SNSやらツイッターやらを通じて、だれもが全員コメンテーターとなる時代にあっても、じつはサイレント・マジョリティは存在するのではないか。そう思わせるところに Zorrie というヒロインの設定意義があるのかもしれない。
 ともあれ、そんな人物を描くのに、メタフィクションのような超絶技巧がいっさい不要であることはいうまでもない。ここでは「あざとい小説技法は皆無」。「折々の喜びと悲しみ、悩み、惑いが抑制された筆致で淡々と綴られていく」。
 たしかに伝統的、定石的な手法ではある。テーマも斬新なものではない。こんなふうに自分の人生をまっとうした人間がいた。ただそれだけの話ともいえる。しかし読後、それがどうした、それでいいではないか、という気がすることもたしかだ。政治問題であふれ、華やかな技巧が目につくアメリ現代文学にあって、「干天の慈雨とはいわないまでも、一陣の涼風を感じさせる好篇である」。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。こんな楽しい曲をたくさん作ったクープランは、よほど幸せな人生を送ったひとにちがいない、と思って調べると、彼は若いときから太陽王ルイ14世のサロンで活躍した宮廷礼拝堂つきオルガン奏者とのことだった)

Francois Couperin Edition