ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Snow" 雑感と、文学におけるヒーローの死

 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的である。(パスカル『パンセ』)
 ウクライナでは連日、この箴言どおりの状況がつづいている。それは紀元前416年、ペロポネソス戦争のさなかに起きたメロス包囲戦を思わせるものだ。トゥキディデスの『戦史』によれば、スパルタの植民都市国家で弱小国メロスの代表にたいし、大国アテナイ使節はこう述べている。「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなし得るか、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか、その可能性しか問題とはなり得ない」。これが21世紀の今日でも国際政治の現実であることを、今回の侵攻はまざまざと見せつけている。
 では、この状況を打開するにはどうすればいいか。パスカルはつづけていう。「正義と力をいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない」。正論だが、具体的にどうすればいいか、とまでは書かれていない。それは『パンセ』を読んだひとが、それぞれの立場に応じて考えなさい、ということなのだろう。
 現在、国家単位でできること、なすべきことについては、世界各国の政治家をはじめ、TV番組でも専門家や、いろいろな人びとがコメントを述べ、議論百出している。ぼくもぼくなりに私案があるが、それは夢想の域を出るものではない。
 それより、ひとりの人間としてなにができるか、なにをなすべきか、ということを考えている。テレビで流れる悲惨な光景を目のあたりにして、ああかわいそう、と思うだけでは済ませたくない。そんな同情は、対岸の火事としてながめることに等しい。
 ところが、上の議論を聞いていると、いくら真剣なようでも、やはり対岸の火事どまりの意見にしか思えないことがある。その場合、これが実際に日本で、自分の身のまわりで起きたらどうするか、という発想が欠けているのではないか。「要スルニ世間ハマダノンキナルガ如ク被存候。多少血ヲ流ス位ノ事ガアツテ始テマジメニナルカト被存候」といったのは森鴎外だが、「血ヲ流ス位ノ事ガアツテ」も「マダノンキ」な風潮がいまの日本にはあるような気がする。
 そんな風潮のなかでたまたま、いま読んでいるのは Orhan Pamuk の "Snow"(2002)。あすには3回目のワクチン接種ができそうなほど体調が回復してきたものの、まだ本調子ではなく、それにくわえて昨今のウクライナ情勢が気になり、なかなか先へ進まない。
 それでも、いままで読んだ範囲から判断すると、これは発行年からして、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件について Pamuk が思索を深めた結果なのではないか、という気がしてきた。イスラム原理主義者のテロリストも登場するからだ。
 思わず目をとめ、しばし考え込んでしまうくだりがいくつもある。たとえば、主人公のトルコの詩人 Ka はこう述べている。'I'm very happy right now,' repeated Ka.'I have no desire to play the hero. Heroic dreams are the consolation of the unhappy. After all, when people like us say we're being heroic, it usually means we're about to kill each other ― or ourselves.'(p.316)
 なるほど。ぼくが「なにをなすべきか」と考えているなかには、たしかに heroic dream もふくまれる。前々回、ぼくはこう書いた。「もしぼくが彼の国の住民だとしたら、まず家族のことを考え、年齢的にも戦闘はむりなので国外脱出の道を選ぶだろう。しかし若ければ、死を覚悟でレジスタンス運動に参加したい」。それは to play the hero であり、現実には to kill each other ― or ourselves ということなのだ。
 また前回アップした George Orwell の "Homage to Catalonia"(1938)のレビューのなかで、ぼくはこうしるした。「悪との戦いに中立はありえない。戦い、戦いに勝ち、生き残らなければならぬ。だがそのためには敵を殺さなければならない。それは手を汚すことであり悪である。それが現実である」。
 西洋にはペロポネソス戦争の時代から今日まで、こうした「正義のための流血」を是とする二律背反の現実を生きてきた歴史がある。ベルジャーエフは述べている。「この世から殺人をなくすために、また人類にとって最も価値あるものを守るためにあえてひとを殺さなければならない場合がある」。(『人間の運命』)
 悪の座視は悪だが、悪を滅ぼすために流血という悪をなさざるをえない。彼らはこうした二律背反の不幸な歴史を生きている。それが「人間の運命」だとベルジャーエフはいうのだが、その「人間」のなかには日本人はふくまれないのだろうか。いま、ぼくたちもまた、二律背反という道徳的難問に直面しているはずなのに、そのことに気づかない、気づいても難問から逃れられると思っているような「マダノンキ」な言論が多いのではないか。
 メロス包囲戦のほかにも、大国と小国の対決という状況は数えきれないほどあるはずだが、現代史において、今回の侵攻にもっとも近い事件のひとつはスペイン内戦だと思う。周知のとおり、反ファシズムをかかげた人民戦線に与して、後方からの軍事支援ではなく、実際に参戦した国はひとつもなかった。戦闘に参加したのは、上の Orwell や Hemingway たちも名を連ねた義勇軍だけだった。
 義勇軍が結成されるような事態は悲劇である。ジョージ・スタイナーはいう。「われわれが悲劇という名で呼ぶ、個人の苦悩とヒロイズムとのあの表現形式は、明白に西洋の伝統だけに属するものなのだ。それはわれわれが人間の行為の可能性についてもっている感覚の一部になり切っている」。(『悲劇の死』)
 結局、「実際に日本で、自分の身のまわりで起きたらどうするか」と考えつづければ、いかに死ぬか、という悲劇の問題についても行きつくはずなのだ。極論だが、極端な場合についても想定しない言論はむなしい。スタイナーのいう「われわれ」とはむろん西洋人を指し、西洋人にとって、偉大なヒーローの死という悲劇は「人間の行為の可能性についてもっている感覚の一部になり切っている」。ところが、多くの日本人は「マダノンキ」であり、いま現地で起きている悲劇を伝える報道にも「悲しい劇」という観点しか見受けられない。
 ここでスタイナーのように、ギリシア悲劇シェイクスピア悲劇について言及するゆとりはない。そこで、いままで本ブログでヒーローの死を扱ったことはないか思いかえしたところ、いちばん該当するのは、えんえん31回にもわたって書きつらねた『"Moby-Dick" と「闇の力」』。

 そのどこかでも引用したが、Oh, now I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. 「おお、いまこそ感じるぞ、おれの至上の偉大さは、おれの至上の悲しみにある(拙訳)」というエイハブ船長のことばこそ、じつは19世紀以降の世界文学のなかで「至上のヒーローの死」をもっとも端的に要約したものだと思う。
 ほかにも、断片的な扱いだが、どこかで Hemingway の "For Whom the Bell Tolls" (1941 ☆☆☆☆★★)についてもふれたおぼえがある。

For Whom The Bell Tolls

 義勇軍に参加した Hemingway はぶじ生還したが、同書の主人公 Robert Jordan は戦死する。Robert Jordan lay behind the tree, holding on to himself very carefully and delicately to keep his hands steady. He was waiting until the officer reached the sunlit place where the first trees of the pine forest joined the green slope of the meadow. He could feel his heart beating against the pine needle floor of the forest.
 この結びのくだりを読むたびに、ぼく自身も心臓がドキドキし、胸に熱いものがこみあげてくる。映画『白鯨』の主役はグレゴリー・ペックで、『誰が為に鐘は鳴る』のほうはゲーリー・クーパー。どちらも、そこそこがんばっているが、ぼくが思うに、『嵐が丘』でヒースクリフをみごとに演じた名優ローレンス・オリヴィエこそ、エイハブ船長やロバート・ジョーダンにふさわしかったのでは。恥ずかしながら、"Wuthering Heights" は英語では序盤どまり、それも学生時代に読んだだけなので、いつか同書もヒーローの死という観点から読んでみたいと思っている。
 そうそう、これまたえんえん記事を書きつづけたあげく、やっとレビューにたどりついた "The Red and the Black" についても、同様の観点から読みなおすとまた新しい発見があるかもしれない。