ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Patrick Modiano の “Invisible Ink” (2)

 ノルウェーノーベル賞作家 Knut Hamsun(1859 – 1952)の "Hunger"(1890, 英訳1996)をボチボチ読んでいる。薄い本なのだけど、いっこうに進まない。
 英語そのものはごく標準的で読みやすい。取りかかったとたん、これなら楽勝と思ったくらい。だけど、その後サッパリ。理由は簡単、数ページめくっただけで、すぐに飽きてしまうからだ。
 けれども、これは名作の誉れ高く、『新潮世界文学辞典』によると、刊行当時「全ヨーロッパにセンセーションを起こし、文学思潮をほとんど変化させた」とのこと。この記述、どこがどう変わったかについては明らかにしていないが、たしかに正鵠を射ているような気もする。
 19世紀のヨーロッパ文学というと、ぼくは英訳版では Stendhal や Balzac、Dostoyevsky や Tolstoy など仏露のものしか接したことがないのだが、この "Hunger" は、そうした一連の作品とは明らかに毛色が異なっている。対等に近い複数の主要人物の絡みあいから生まれる物語性が希薄だからだ。
 上の辞典は本書を「ドストエフスキー的な作品」と紹介しているが、それはどうかな。なるほど主人公は、ラスコーリニコフのような貧乏青年なのだけど、ここにはソーニャがいない。若い娘も登場するが、ラスコーリニコフにたいするソーニャのような重みがない。つまり対等の関係ではない。
 さらに大きなドストエフスキーとの違いは、本書の主人公がラスコーリニコフのように「神に憑かれて」(George Steiner)いないことである。青年はときおり神への呪詛こそ発するものの、いまのところ、そこには哲学がない。
 いかん、なんだか脱線しそうなので元に戻ると、本書が19世紀末当時のヨーロッパの「文学思潮をほとんど変化させた」というのが正しい指摘に思えるのは、ひょっとしたらこれ、カフカの先駆的作品かも、という気がするからだ。かの "The Metamorphosis" が1915年、"Crime and Punishment" は1866年、そしてそのほぼ中間にこの "Hunger" が出版されたという時系列は、なかなか興味ぶかい。それなのに、読んでいて「すぐに飽きてしまう」のはなぜか。
 長くなりそうなので閑話休題。表題作は、英訳版(2020)としては Modiano の最新作のようだ。(原作では "Chevreuse"(2021)のほうが新しい)。

 これは一読、「もっとヤクを!」と思ったものだ。ぼくは軽度のモディアノ中毒患者なので、たいした禁断症状ではなかったけど、それでも、もっともっと強烈なモディアノ節に酔いしれたかった。
 設定は旧作と似たり寄ったりで、初老の男 Jean Eben が青年時代を回想。ある探偵社で数ヵ月だけ働いていたころ、Noël Lefebre という失踪した女性の行方を追ったことがあり、老いたいま、なぜかそれが気にかかってきた。There are blanks in a life, but also sometimes what they call a refrain. For periods of varying length, you don't hear this refrain, as if you've forgotten it. And then one day, it comes back to you unbidden, when you're alone and they are no distractions. It comes back, like the words of a children's song that still has a hold on you.(p.49)
 このくだりを読んだとたんパッと思い出したのが、中島みゆきの名曲「りばいばる」。「忘れられない歌を 突然聞く 誰も知る人のない 遠い町の角で やっと恨みも嘘も うすれた頃 忘れられない歌が もう一度はやる」。

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 中島みゆきとモディアノの比較研究なんて面白そうなテーマだが、まじめなフランス文学者が聞いたら吹きだすでしょうな。ともあれ、タイトルの invisible ink が本文で出てくる箇所もモディアノ節である。Trying to bring my research up to date, I get a strange feeling. It's as if all this was already written in invisible ink. .... Perhaps, at the turn of a page, what was set down in invisible ink will gradually emerge, and the questions I've been asking myself for so long about Noël Lefebre's disappearance, as well as the reason I've been asking myself those questions will be resolved with the precision and clarity of a police report. .... explanations will be provided in minutest detail, the mysteries cleared up. And perhaps this will allow me, once and for all, to better understand myself.(p.105)
 ほかにも、Present and past blend together in a kind of transparency, and every instant I lived in my youth appears to me in an eternal present, set apart from everything.(p.123)など、いかにもモディアノらしく、しばし禁断症状もおさまるのだけれど、invisible ink の ink がにじみすぎて、肝腎の絵柄、the mysteries がいつにもましてハッキリしてこない。それゆえ「『もっとヤクを!』と叫びたくなるのである」。