ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Heinrich Böll の “The Lost Honor of Katharina Blum”(2)

 ゆうべ、一杯やりながらピエトロ・ジェルミ監督の『刑事』(1959)を観たあと、Wiki で調べて驚いた。Carlo Emilio Gadda の "That Awful Mess on Via Merulana"(1957)が原作とはちっとも知らなかった。いまさらながら、恐ろしい無知ですな。でもきっと、長らく積ん読中の同書も、早いとこ片づけろっていう天のお告げなんでしょう。
 映画のほうは、高校時代、はじめて例の主題歌『死ぬほど愛して』を聴いたときから、その出だし、「アモーレ・アモーレ・アモーレ♪ アモーレ・ミオ♪」という歌詞が耳にこびりついている。が、いままで未見だった。

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 主演女優は、デビューまもないころのクラウディア・カルディナーレ。『ブーベの恋人』に次ぐ清純さにぐっと惹かれた。幕切れで恋人の名前を叫ぶシーンは、『望郷』や『天井桟敷の人々』と似たようなものだけど、そこそこ感動的だった。
 内容は要するにミステリとメロドラマの組み合わせ。よくあるパターンだが、なにしろ主題歌がいい。「美しい音楽がバックに流れると画面もとたんに美しく見えるから不思議」とは、双葉十三郎の『ブーベの恋人』評。卓見です。『刑事』にも当てはまり、ちょっと高級なグラスで飲むリーズナブルな値段のワインといったところか。
 ミステリとメロドラマといえば、レビューではカットしたけれど、表題作(1974)にも少しだけその要素がある。こちらも映画化されていて(1975)、邦題は『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』。ただ、日本ではどうも一般公開されていないようだ(チェック洩れの可能性あり)。
 もちろん未見だが、思うに、ヒロインの若い美人 Katharina Blum と銀行強盗の Ludwig Götten が仮装舞踏会で出会い、一夜を共にするあたり、いかにもメロドラマらしく撮られているかもしれない。が、原作はもちろん、どうやら映画のほうもテーマはマスコミの暴力にありそうだ。
 いまでこそ偏向報道はよく耳にする話題だが、ぼくの知るかぎり、文学の世界でいち早く採りあげられた例のひとつは、Orwell の "Homage to Catalonia"(1938 ☆☆☆☆★★)。Nearly all the newspaper accounts published at the time were manufactured by journalists at a distance, and were not only inaccurate in their facts but intentionally misleading.(Penguin Books, p.143)

 こうしたマスコミによる意図的な情報操作を扱った近年の作品のひとつが Umberto Eco の "Numero Zero”(2015 ☆☆☆★★★)である。

 この両書と表題作が異なるのは、後者が政治問題ではなく、個人のプライバシーにかかわるマスコミの偏向を描いている点だ。その意味では小粒だが、「虚偽と曲解、臆測に充ち満ちた記事により、ひとりの女性カタリーナの名誉が回復不能なまでに毀損される」ありさまはヒドさもヒドし。ホンマかいな、と疑いたくなるほどだが、いや待てよ、と考えなおした。「まさか現代ではこれほどの人権侵害、人格攻撃をメディアが行なっているはずもなかろう、と思いたいところだが現実はさにあらず。言論の自由と社会正義の名のもと、新聞週刊誌が自社の主張に反する相手をとことん断罪する例は枚挙にいとまがない」。
 また、ここでは「極端に偏った報道を、なにもよく考えない一般大衆も真に受け、いわゆる世論が形成される」ことも話題になっている。これまた、もはやおなじみのテーマだが、本書が書かれた当時としては目新しかったのではなかろうか。しかもそれがじゅうぶん現代的である。

 明治時代は「羽織ゴロ」とさげすまされたジャーナリストだが、いまやとりわけ大新聞・主要テレビ局ともなると学生たちに人気の職種であり、実際、社会の木鐸を自認しているかのように見えるエラソーなひともいる。そうではない優秀な記者もいれば、いわゆるサラリーマン・タイプの記者もいるはずだが、さてそのパーセンテージはどうなんでしょうね。