ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Henry James の “The Portrait of a Lady”(3)

 このところ、諸般の事情というやつで読書から遠ざかっていた。知的生活としてはもっぱら、いままでアップしたレビューもどきの加筆修正だけ。もっか、2011年の11月までさかのぼったところ。少しは読みやすくなったものと自己マンにひたっている。
 それでも先週末からやっと、"Tess of the D'Urbervilles"(1891)を読みはじめた。たしか高1のとき以来の再読だ(もちろん初読は邦訳で)。
 当時の英語の先生が授業中、なにかの話のついでに、「だれかハーディを読んだことがあるか」と尋ねられ、「はい」とぼく。「ほう、なにを?」
「『ダーバヴィル家のテス』です」と答えたところ、その先生がなにやら妙な表情を浮かべられたのをいまでも鮮明に憶えている。マセガキだったぼくには、その表情の意味がなんとなくわかった。『テス』はとても面白かったけど、「あの話」も出てきた(ような気がする)からだ。
 先生はひと呼吸おいて、「ハーディは短編がええよ、『妻ゆえに』とか」とお薦めになった。その後、文庫本で『ハーディ短編集』を買い求めたけれど、こちらは読んだ記憶がない。ハーディは『テス』だけで満腹気分だったのかもしれない。

 それからもう半世紀以上。とうに古希を過ぎたいま、第6回古典巡礼のテクストとして "Tess" を選んだのは、なぜか上のエピソードを思い出したから。ところが、いざ英語で読んでみると、いまのところ「あの話」は(上の「気がする」という注どおり)間接描写のみ。いくらマセガキでも、これくらいでコーフンするわけはないし、いったいどこが面白かったのだろう。それともこの先、もっとストレートになるのかな。というわけで、こんどの巡礼も時間がかかりそうだ。
 表題作も、なかなかページが進まなかった。なにしろ Henry James だ。どこか引用しようと思ったが、どのシークェンスも読みかえすこと自体がしんどいし面倒くさい。前回は超絶技巧について軽く復習したので、今回は「不毛な芸術」について、途中のメモから拾ってみよう。「道徳とは無関係のキャラづくり?」「むずかしいがロクな内容ではない」「尻切れトンボの会話」「価値観の表明なし」「正邪善悪についての言及なし」。
 中盤あたりまでの主なコメントだが、どれも似たり寄ったり。She [Isabel] believed then that at bottom she had a different morality. Of course the morality of civilised persons has always much in common; but our young woman had a sense in her of values gone wrong or, as they said at the shops, marked down. She considered, with the presumption of youth, that a morality differing from her own must be inferior to it; and this conviction was an aid to detecting an occasional flash of cruelty, an occasional lapse from candour, in the conversation of a person who had raised delicate kindness to an art and whose pride was too high for the narrow ways of deception.(p.351)
 面倒くさいといっておきながら、つい引用してしまった。Isabel が morality および values について述べた、おそらく唯一のくだりだと思うが、これにつづく箇所も「むずかしいがロクな内容ではない」。レビューから引くと、「イザベルのいう『道徳』は正邪善悪とはおよそ無縁のもの」だからだ。
 上に art とあるので、さらに拙文から。「一方、彼女と接する人びとはそもそも道徳を口にすることさえなく、結婚や財産、美術品などに興味を示す者はいても、人生いかに生きるべきかとおのれに問い、またイザベルに問いかける者はだれひとりいない。彼らとイザベルのかわす会話が、それぞれの根本的な価値観や存在基盤にかかわることも皆無」。
 文脈を無視して切り取ると、She [Isabel] had no opinions ...(p.460)というのは、「本質的にどの人物にも当てはまる記述である」。
 ここで『新潮世界文学辞典』から。「(ヘンリー・ジェイムズは)二〇世紀文学の死命を制する大作家という定評はもはや動かない」。ウソでしょ。そんな話、ぼくは学生時代からいままで聞いたことがない。
 ついで、 George Steiner の "Tolstoy or Dostoevsky"(1959)から。... someone who places Madame Bovary abve Anna Karenia or considers The Ambassadors comparable in authority and magnitude to The Possessed is mistaken ... he has no 'ear' for certain essential tonalities.(p.15)
 ぼくはもちろん "The Ambassadors"(1903)は未読だけど、この "The Portrait of a Lady"(1881)を読んでみて、Henry James を「二〇世紀文学の死命を制する大作家」などと持ち上げる英文学の先生たちは、 [They have] no 'ear' for certain essential tonalities. ではないかと思った。
 上の『世界文学辞典』には、「日本では夏目漱石に酷評」とも載っている。不勉強につき「酷評」の出典は不明だが、ネットで調べると、漱石は「非常に難渋な文章」「哲学のような小説」を書く作家と評したそうだ。
 してみると漱石先生は、Henry James の表現方法を問題にしたのかもしれない。が、ぼくは少なくとも "The Portrait" の内容からして、いまのところ George Steiner 説に賛成したい。
 それから、前回紹介した2004年のブッカー賞最終候補作 "The Master"(☆☆☆☆★)の作者、Colm Tóibín の指摘も正しそうだ。同書の落ち穂ひろいから引用すると、「こんな一節がある。And each time it became apparent to him what effect they were having, he retreated into the locked room of himself, a place whose safety he needed as desperately as he needed her involvement with him. (p.240)
 ぼくはこれをもとに、「彼は他人とかかわりながらも『心の密室』に閉じこもり、密室という『安全地帯』から人間を眺めていた」と、トビーンの解釈によるヘンリー・ジェイムズの人間観を要約した。ぼくの勝手な直感では、この解釈は正鵠を射ているような気がする」。
 "The Ambassadors" をはじめ、有名な後期三部作はどれも未読なので最終的な結論は控えるが、"The Master" は Henry James の入門書として、たぶん最適のような気がします。(了)