ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Thomas Hardy の “Tess of the D'Urbervilles”(4)

 読んでから見るか、見てから読むか。
 原作と映画についてよくそういわれるが、ぼくの場合は前者がほとんど。そして通例、原作のほうがよかったと思うものだけど、市川崑監督作品はべつ。『細雪』(1983)、『おはん』(1984)、『犬神家の一族』(1976)。原作もよかったが、映画を見てから読みなおしたことはいちどもない。映画のほうは三作とも三回も見たというのに。
 未見だが、ロマン・ポランスキー監督の『テス』(1971)はどうだろうか。

 フタバさん(双葉十三郎と呼び捨てにするのは気が引ける)によると、「文芸映画と呼ぶにふさわしい風格の大作」なのだそうだが、あいにく「ナスターシャ・キンスキーは容貌も演技もバーグマンに似ているが、いささか品格がおちる」らしい。
 ナスターシャ・キンスキーといえば、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(1984)が絶品だった。『テス』は彼女がひと皮むける前の作品だったのかもしれないが、さすがにイングリッド・バーグマンとくらべるのは、ちょっと可哀想な気もする。
 ともあれこのブルーレイ盤、原作を読んでからのお楽しみに取っておいたのだけど、さてどうしよう。大筋をまた忘れたころに見るのがベストかな。
 なにしろ、映画でも本でも、この先どうなるんだろうというワクワク感がないと面白くない。その点、なんども書くが表題作は「途中の筋書きが見え見え」で、「狡猾なプレイボーイ」Alec が再登場するまでかなり退屈だった。
 本書のハイライトは前回も述べたとおり、結末でテスの処刑を告げる黒い旗の掲揚シーンだけど、そんな展開になるとはぼくは予想できず(正確には、邦訳で読んだときの記憶はまったくよみがえらず)、Alec の再登場はワクワク感たっぷり。個人的には、あれがハイライトだった。
 さて、ナスターシャ・キンスキーがどこまでテスを演じきっているかは不明だが、この Tess、原作では当初から、いずれ不幸な目にあうと読める。「純真無垢な田舎娘」の前に狡猾なプレイボーイが現れたらどうなるか、火を見るより明らかだろう。
 Tess には、「『高慢と偏見』のエリザベスや、『ジェイン・エア』のジェインとちがって強烈な主体性」がない。「合理主義と独立精神に加え、激しい情熱の持ち主でもあるジェインは、知情意、三拍子そろった『元祖ウーマンリブ』の代表だったともいえ」、「エリザベスはその合理主義、独立精神、そして純粋な愛情という点で、『ジェイン・エア』のジェインの先駆けともいえる存在」である。十九世紀初期から中葉の女たちがあれほど強く賢かったのに、世紀末に書かれた本書の Tess はどうして男にダマされるだけ、付き従うだけの女なのか。
 それは当時の女性の地位が一般に下落したからではあるまい。むしろ立場は多少なりとも向上していたのではないか。とすれば、Tess のキャラづくりには Hardy 自身の人間観が反映されているのでは、と考えてもいいだろう。
 といっても、Elizabeth や Emma とちがって、Tess は下層民だから確固たる自我をそなえるべきではない――まさかそんな短絡思考から、HardyTess を「恋するだけの女」として描いたはずはなかろう。
 Tess は主体性が弱い純真無垢な田舎娘で、男にひたすら隷属・盲従する存在である。そして唯一主体性を発揮したときに破滅する。
 つまり Tess にとって隷属や盲従は、そしてそのルーツである純情は破滅への道しるべだったわけだ。だが、純情はもちろん、隷属や盲従でさえ、つねに不幸しかもたらさないものなのか。たとえばその対象が、おのれの範とすべき理想の人物だったらどうか。
 その、たとえば、という可能性を想定しないところに本書の単純な悲劇性がある、とぼくは思う。「隷属は幸福をもたらすこともあるはずなのに、それが破滅にしかいたらないとは、まさにペシミスティックで通俗的な結末といわざるをえない」。もしかしたら、Hardy は理想主義にはあまり関心がなかったのかもしれない。(了)