前回の記事、お気づきでしょうが、要するに「今年のブッカー賞はすこぶる低調だった」、さらには「文学の水準が低下した」というだけで、その原因についてはなにもふれていない。
これから少しずつ、受賞作・候補作の落ち穂ひろいをしながら考えてみよう。(主観的原因、つまり、ぼく自身の読解・鑑賞力の低下については、とりあえず棚上げ)。
まず表題作から。読みおえたのは一ヵ月ちょっと前だというのに、暫定ランキングの作成にあたりタイトルを見ても、さっぱり内容が浮かんでこない。拙文を読みかえしてやっと思い出した。
インパクトが弱い。ま、そういうことだろう。
なぜ弱いか。コアにあるのがおなじみの話だからだ。
ただ、共感をおぼえる読者は多いと思う。I used to think there was a 'before' and 'after' most things that happen to a person; that a fence of time and space could separate even quite catastrophic experience from the ordinary whole of life. But now I know that with a great devastation of some kind, there is no before or after. Even when the commotion of crisis has settled, it's still there, like that dam water, insisting seeping, across the past and the future.(p.210)
catastrophic experience, great devastation とは自然災害や大事故を連想させる文言だが、I の「脳裡に去来するのはもっぱら、若い娘時代のつらく悲しい、あるいは苦い思い出だ。亡き両親、とりわけ病没した母」。I は「修道女たちとの交流を通じて自他それぞれの過去のトラウマと対峙。死別の悲しみはもとより、罪とあやまち、赦しなどに思いをめぐらし人生を検証する」。
トラウマとの対峙、人生の検証とくれば、これはもう陳腐としかいいようがないテーマだが、本書の場合、いくつかの点で上々の仕上がりだ。
まず、無名の語り手 I の登場の仕方。これまたパターンどおりだが、うまい。I は「人里離れた(シドニーから遠く離れた平原にある)尼僧院を訪れ、未信者のまま滞在」。当初、I は身分も立場もいっさい不明。やがて「夫と別れ、職を辞した女性とわかるが、詳しい経緯は語られない」。つまり読者の関心をそそるよう小出しに書かれている。
ついで、途中のツイストがいい。I の苦い思い出のひとつは、高校時代にみんなとクラスメイトをいじめたことなのだが、なんとその相手 Helen が「いまや世界を舞台に活動する修道女となり、『わたし』のいる尼僧院へやってくる」。この Helen は最後、タイトルの Stone Yard Devotinal にからんでくる重要な存在だ。もし Helen が顔を出さなかったら、本書はほんとうに平凡な作品におわったことだろう。
また本筋以外の状況設定も巧妙。老朽化した尼僧院のあちこちにネズミが出没し、I も修道女たちも文字どおり悲鳴を上げる。コミックリリーフというやつだ。
状況といえば、本書には新鮮味がある。これはコロナ禍をいち早く題材にした小説のひとつではなかろうか。... now all the other obvious problems were rising up in our minds; the border closures and lockdowns, the travel restrictions and all the rest, ...(p.56)
ここで上の平凡なテーマが生きてくる。「コロナ禍とは、『わたし』同様われわれ自身にとっても自分の問題とむきあう絶好の機会だったのだ。あのとき自分はどう生きたか、どう生きるべきだったか。本書はそのことを静かに思い起こさせる佳篇である」。
フーっ、途中だけど、もうくたびれました。おまけに頭が混乱。「インパクトが弱い」といっておきながら、いままでずっとホメ殺し。それがいったいどう「文学の水準低下」と結びつくのだろう。(つづく)
(高畑充希、幸あれですな。『DESTINY 鎌倉ものがたり』、わりと面白かった)