本書には前回(2)で挙げたとおり、美点がいくつもある。ぼくの評価も☆☆☆★★。双葉十三郎のことばをもじっていえば、「読んでおいていい作品」だ。
なかでもコロナ禍をいち早く採りあげ、あの状況の核心のひとつに迫ったことは、現代文学のひとつの生きのこる道をしめすものとして興味ぶかい。
舞台は、コロナ禍に見舞われたオーストラリアの人里離れた尼僧院。訪れた無名の語り手 I が長らく滞在することに。という設定は、ロックダウン、不要不急の外出禁止(自粛)、在宅勤務などを余儀なくされた、あの「世界総引きこもり」の象徴といってもいいだろう。
しかし災い転じて福となす。ステイホーム生活だからこそ、なにかできることはないのか、といろいろ模索したひともいたはずで(コロナ禍前からステイホームのぼくはちがうけど)、たとえば藤原正彦は「読書の必要性」を説いていた。
本離れ、活字離れが嘆かれるようになってひさしいのに、なにをいまさら、とぼくは鼻白んだものだけど、"Stone Yard Devotional" を読んで遅まきながら気がついた。I は「修道女たちとの交流を通じて自他それぞれの過去のトラウマと対峙。死別の悲しみはもとより、罪とあやまち、赦しなどに思いをめぐらし人生を検証する。そう、たしかにコロナ禍とは、『わたし』同様われわれ自身にとっても自分の問題とむきあう絶好の機会だったのだ。あのとき自分はどう生きたか、どう生きるべきだったか」。
つまり自己検証という、ひょっとしたらカフカやカミュの実存主義文学以前からあったかもしれない陳腐なテーマを、コロナ禍という新しい文脈のなかで描きあげる。「新しき葡萄酒は、新しき革袋に入(い)るべきなり」とルカ伝にはあるけれど、「ふるき葡萄酒を、新しき革袋にいれる」ことで、ときには傑作秀作さえ生まれるのが現代文学なのではないか。
いいかえれば、もはや語るべきことは語りつくされてしまった現在、あとは状況と語り口で攻めていくしかない。とこれまた陳腐な感想ですが、ぼくは本書の読後にあらためて思った。で、その状況と語り口にたよらざるをえないところに「文学の水準低下」が読み取れるのでは、というわけです。いまにはじまった話ではないけれど、今年のブッカー賞レースは受賞作 "Orbital" をはじめ、そのマイナス面が顕著だった。(つづく)
(きょう『グラディエーターⅡ』を見にいった。いままで柳の下の二匹目の泥鰌がとてもおいしかったのは、『フレンチ・コネクション2』と『エイリアン2』。ほかにも何匹かいたようだけど、本作もすごかったです)