ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jenny Erpenbeck の “Kairos”(4)

     真綿色したシクラメンほど
     清しいものはない
     出逢いの時の君のようです♪
 ぼくの学生時代は四畳半フォークの全盛期だった。ぼくもよく友人たちと東京杉並の善福寺公園に出かけては、その一角でギターをかき鳴らしたものだけど、広い公園と四畳半はいかにもアンバランス。「シクラメンのかほり」のほうがまだ、下手くそなりに、しっくりきた。
  梅の香にまじる不安と歓びと
     はらはらとめまひか夢か花吹雪
 善福寺公園シクラメンを見かけたおぼえはないけれど、梅や桜ならもちろんある。上の拙句は善福寺公園からそう遠くない、ほかの寺の境内や公園で詠んだものだが、記憶のなかの光景はいまや、みんなひとつに溶けまじっている。
 表題作の冒頭、Katharina と Hans が出会うシーンは、「両者のことばと思いが切れ目なく交錯する、いわば『融合話法』」で描かれているだけに読ませる。もしここが小椋佳の歌のようにロマンティックだったら、まあ、フツーの恋愛小説ですな。(とそんなことをいうスレッカラシになったせいか、いまでは四畳半フォーク、まったく聴かない)。
 やがて Hans が Katharina の父親より十歳も年上で、しかも妻子ある男とわかり、とうに古希をすぎたぼくはニヤニヤ、がぜん興味がわいてきた。
 その流れで、川端康成の『眠れる美女』と吉行淳之介の『暗室』をミックスしたような作品を期待したが、当てはずれ。「ドイツおよび旧ソ連の歴史も混入。第二次大戦の惨禍はもとより、スターリンの恐怖政治とその批判、ヒトラー独裁とその末路、旧東ドイツ・ホーネッカー体制とその崩壊。こうした激動の現代史と政治の現実が愛の語らい、ベッドシーンにいり混じる複雑な構造」が浮き彫りに。やっぱりドイツ人にとっては、二十世紀の負の遺産はあまりにも大きいということか。川端も吉行も戦争体験者だが、彼らのエロスの世界に政治がまぎれこむことは、おそらくなかった。
 などと瞑想にふけりつつ、じつはしだいに退屈しながら読んでいると、Katharina が若い男と浮気。それを Hans が「執拗にとがめるあたりから、一見痴話げんか、痴情のもつれ」としか思えず、ぼくはなんども睡魔に襲われてしまった。
 Hans のしつこさは、わからなくもない。せっかく若いツバメならぬスズメ?ができたのに浮気されてしまう。昼メロでおなじみの話なので、お金持ちでないぼくにも想像がつくわけだけど、「政治と性愛の対比」のおもしろさを差しひいても、くどい、くどすぎる。
 となると歴史や政治のほうも、従来の斬り口どおりのところがますます退屈になり、眠気もさらに増幅。フルシチョフによる「スターリン批判」だけではスターリンの全体像がつかめないことは、当のフルシチョフ自身認めていたことだ。かんじんのドイツ史にしても、なにかぬけ落ちている点があるのでは。
 いきおい評価は下がる一方だったが、突然、一気に目が覚めたのがエピローグ。そうか、そういうことだったのか!「あわてて巻頭から読みなおすと、たしかにそこには意味ふかい光景がひろがっている」。がしかし、この「最後のどんでん返し」については、じっさいに読んでください、としかいえない。
 ぼくも目をパッチリあけて読みかえしたら、あれあれ、ここにこんな伏線があったのか、と本書の構成のみごとさを痛感しそうだけど、「再読をつづける気力はなかった。未読のかたは、プロローグ→本篇の冒頭→エピローグ→のこりの本篇と読んでみてはどうか。意外性はなくなるが、中途の退屈なくだりにも感銘をうけるかもしれない」。
 どうでしょうか。(了)

(艦船模型にハマったひとつのきっかけは、デスクまわりの片づけにありそう。去年の暮れ、なにかと溜まっていた段ボール箱を再利用する手はないものかと考え、ふとひらめいて半分に切断したところ、計算どおり文庫本がちょうど収まった。それをデスクの近くに積んでみると、愛読書にかこまれているのがとても心地よかった。モノつくりの楽しさに気がついた瞬間だった)