きのうジムの帰りに最寄り駅近くの書店に立ち寄ったら、『死とは何か』という新書本が目についた。
目次をちらっと見たところ、表題作について今回書こうと思っていた「死と宗教」というトピックが大々的に採りあげられている。しかし一瞬迷った末、けっきょく買わなかった。「私たちは生それ自体のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全体的な構造のうへに立つて、はじめて生命の充実感と、その秘密に参与できるのだ」という福田恆存のことばがひらめいたからだ。
宗教の淵源、根源のひとつには「死」があるのではないか。ぼくは本書のレビューをでっち上げるとき、そう直感的に思ったのだけど、それを論証するのは厄介だろうな、と考えなおし言及しなかった。上の本にはその論証が載っていそうだが(勘違いの可能性あり)、それならそれでぼくの直感の裏づけとなるにすぎない。彼岸の世界の宗教にかんする専門知識を得なくても、福田のいうとおり、此岸の世界における「生と死との全体的な構造」を実感するだけで、とりあえずじゅうぶんなのではないか。
うっかりページはメモしなかったが、本書のどこかに bardo という単語が出てきた。そこでふと思い出したのが、2017年のブッカー賞受賞作、George Saunders の "Lincoln in the Bardo"(2017 ☆☆☆★★★)。
なんだ、この "I Am ..." は柳の下の二匹めの泥鰌かも、とそんな気がして同書のレビューを読みかえすと、あちらのほうがはるかにおもしろそうだ。(そうだ、というのは、じつは内容を忘れていたから)。
bardo とは「生と死の中間領域(チベット仏教のバルド)」と自分でも説明していたが、いま Wiki を調べると、In some schools of Buddhism, bardo or antarābhava is an intermediate, transitional, or liminal state between death and rebirth.
ほかに同様の中間領域を扱った作品のひとつは、2019年のブッカー賞最終候補作、Elif Shafak の "10 Minutes, 38 Seconds in This Strange World"(2019 ☆☆☆★)。「人間の脳は、心臓が停止したあと10分38秒間も活動をつづけた例があるという。この生から死にいたる過程で、ひとはなにを思うのか」。
映画でも『ゴースト ニューヨークの幻』など、似たような設定の作品がいくらでもありそうだ。
とそんな事例を思い出しながら本書のラストセンテンスを読むと、いかにも陳腐。Nothing in the world was truly over.(p.193)「死は生のおわりではない、とフィンはいいたげだが、神話の時代から語り継がれてきた話をいまさら聞かされても感動は得られない」。
上の "Lincoln ..." では、「数多くの亡霊たちが生者に憑依したのち離脱、ハチャメチャな暴動を起こしたり、エロっぽいドタバタを演じたり、とにかく猥雑な一大狂騒劇を繰りひろげる」。"I Am ... " でも、「死んだはずのリリーが泥だらけの姿で現れた」のち、「夢か幻想か、はたまた現実か、なんとも奇妙キテレツな物語がはじまる」。
どちらもマジックリアリズムを駆使した作品といえそうだが、マジックリアリズムといえば、なんといってもラテアメ文学のお家芸。昔の記憶をたどれば、たとえば、かの "One Hundred Years of Solitude"(1967 ☆☆☆☆★★)が傑作たるゆえんは、そのマジックリアリズムが民族の伝統と文化、運命、彼らの信仰する宗教を物語っていたところにあるのではないかしらん。
そして文化とは、宗教とは、エリオットによれば「人間の生きかた」である。... there is an aspect in which we can see a religion as the whole way of life of a people, from birth to the grave, from morning to night and even in sleep , and that way of life is also its culture.(Notes Towards the Definition of Culture, 31)
これ、なんどめの引用だっけ。ともかく、ある民族や国民に特有の生きかたが文化であり宗教である。とすれば、García Márquez のマジックリアリズムは、そうした人間の生きかたを体現したものだったのだ。
ひるがえって、George Saunders や Lorrie Moore の場合はどうか。後者にしぼると、これは「生きかた」とはほとんど無縁の作品ではなかろうか。心にひびいてくるものがないからだ。しかも、マジックリアリズムという技巧ひとつとっても、Saunders のものより見劣りするのは明らかだ。
どうしてこんなことになったのか。それは本書が死者との交流、bardo という生と死の中間領域を扱いながら、宗教の話がまったく出てこないこととけっして無関係ではあるまい。少なくとも、ぼくにはそう思えてならない。「神なき時代の死者との交流からは、こんな『奇妙キテレツな物語』くらいしか生まれないのだろうか」。
お彼岸にぴったりの話題でしたね。(了)
