一昨日やっと、"Bleak House"(1853)を読了! ご存じ Dickens の超大作である。なんだかヒマラヤ八千メートル峰のひとつの登頂に成功したような気分、といえば大げさだけど、(想像だが)ちょっとそれに近い。
昨年の暮れ、ある友人に出した年賀状で、「今年こそは Dickens を読みたいのですが」と書いた憶えがある。そのとき頭にうかんだのが本書だったが、実際に取りかかったのは、さて、三月末だったか四月初旬だったか。
どちらにしろ、ざっと三ヵ月もかかってしまった! むろん、こればっかり読んでいたわけではないし、諸般の事情で大休止もなんどかあった。そもそも最初はあくまで試読のつもりだった。いつでも投げだそうと及び腰だった。
それが途中でやめられなくなり、ついに新年の目標達成。思えば退職時、職場のいまは亡き大先輩に、「じつはまだ、Dickens、読んだことがないんです」と告白したことがある。新年というより数年越しの宿題達成だろう。
べつに感慨にふけっていたわけではないけれど、きのうはいつものレビューもどき、書けなかった。きょうはどうだろうか。(以下の拙文は、「ぼくの古典巡礼」に転載しました)。
[☆☆☆☆★★] 壮大なメロドラマである。といっても大河小説ではない。チリも積もれば山となり、やがて巨大な山となる。恐るべき細部へのこだわりから生まれた恐るべき集積が本書なのだ。しかもその細部は当初、無意味で不必要としか思えない。冒頭の法廷場面からしてそうだ。ロンドンの大法官裁判所で長年審理中というだけで、およそ争点不明の「ジャーンディス対ジャーンディス」訴訟事件。そんな事件にときおり言及することになんの意味があるのか。ところが終盤、事件はなんとメロドラマの一部を成していたことがわかる。ディケンズは「何よりも断片が、細部が、大切な作家」であって、「建物全体はどうしようもない」とオーウェルはいうが、少なくとも『荒涼館』にかんしては全体の構成はほぼ完璧である。なるほど主役脇役端役を問わず、饒舌につぐ饒舌。しかし彼らはみな生きている。奇人変人でさえリアルだ。主筋副筋のべつなく、脱線につぐ脱線。しかしどのエピソードも面白い。怪奇現象でさえ信憑性がある。まして山場となるとその盛り上がり、緊迫度はハンパない。そしてちょうどバッハ以前の古楽がすべてバッハに流れこみ、ドイツ語で「小川」を意味するバッハが「大河」と称されるように、あらゆる枝葉末節はやがて本書のヒロイン、エスター・サマソンをめぐるメロドラマへと収斂される。(上に「大河小説ではない」と書いたが、「バッハ的な大河小説」ではある)。しかしこのエスター、たとえばアンナ・カレーニナのように強烈な存在ではない。たしかに善良で純粋、愛情豊かな女性だが、大病を患い容貌こそ変わっても、性格は終始一貫、それ以上でもそれ以下でもない。「トルストイの登場人物たち」は「自己の魂の形成に悪戦苦闘する」が、「ディケンズの人物たちは初めから出来あがった完成品なのだ」というオーウェルの指摘は完全に正しい。けれどもエスターはただもう純粋。こんな娘をだれが見捨てておけようか。とそう読者に思わせるだけの人間的魅力をそなえたヒロインなのだ。ゆえにその愁嘆場、歓喜の場はおそらくエリザベス朝当時の一般大衆なら涙なしには読めなかっただろう。いや現代の読者でさえ落涙するかもしれない。登場人物も一部をのぞき中産階級の人びとがほとんど。オースティンの上流家庭小説とは異なり、ここには元祖大衆小説といっていい世界がひろがっている。がしかし、人生かくあるべし、という明確な人生観世界観は読みとれない。あくまで庶民感覚の善良さが基軸にあるようだ。その意味でも、われらが庶民のヒロイン、エスター万歳! 永遠に幸あれ!
