ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jim Crace の “Being Dead”(3)

 お気づきかもしれませんが、"Flesh" のレビュー、結論部分だけ加筆修正。おとといの夜、ふと目がさめてトイレに行ったあと、ひらめいた。睡眠不足が気になったけど、拙文のほうがもっと気になり、10分くらいだったかパソコンにむかった。
 退院後のいまは毎日がリハビリで、注意点を挙げると、じゅうぶんな睡眠をふくめた規則正しい生活、悪玉コレステロールの低下を心がけた食事、適度の運動と筋トレ。
 というわけで、きのうは血圧が上がりはしないかと心配だったが、さいわい安定していた。でも心配のしすぎなど、メンタル面のコントロールも大切なのだとか。むずかしいですな。
 メンタル面といえば、ひさしぶりにベートーヴェンをBGMに聴いている。例の「嘆きの歌」が入ったピアノソナタ第31番。病人にはあまりにも定番すぎると思ったけど、最初に手に取ったバックハウスがやっぱりすばらしく、ほかのピアニストのものも何枚か聴いてみた。どれもよかった。
 朝は食事の前、YouTube でニュース番組を見ている。入院中、テレビよりスマホのほうが面白いことに気づいたからだ。YouTube ではテレビや新聞の報道を紹介しながら解説が加えられているので、いわば表と裏のちがいがよくわかる。どちらが正しいか判断するのはぼく自身。災い転じて福となすってほどじゃないけど、考える選択肢がひろがったのは入院のおかげだ。
 ともあれ、ちょっとした「臨死体験」によって毎日の生活が変わり、つまりは死を意識するようになった目で表題作をふりかえると、「荒涼とした海岸の砂丘で撲殺された動物学者の夫婦ジョセフとセリース。ふたりの死体が生き物の餌となり腐敗していくようすがネクロフィリアさながら、克明精緻に綴られる。たしかにひとの『死んでいる』姿とは本来、それが自然のありようである」。
 というか、これがもし映画だったら目をそむけたくなるようなシーンの連続である。「死体が生き物の餌となり腐敗していくようす」なんて、べつに「克明精緻に綴」るまでもない。ちょっと想像するだけで、おぞましい映像がすぐに浮かんでくるからだ。これが減点材料その一。
 その二は、「ふたり(ジョセフとセリース)の出会いを描いた過去篇は定番の青春小説で、当日の死にいたる過程や、夫婦と娘シルとの断絶、知らせをうけたシルの反応など、どれも家庭小説でありがちなもの」であること。
 その三、「ジョセフもセリースも崇高な人物ではない」こと。「みごとな人生を生きた人間の死は、それがどんなにむごたらしい死にざまであってもひとを感動させる。作者はそう思ったことがないのだろうか」。
 要するに、being dead 以外の内容がお粗末なのだ。しかるにこれが2000年の全米批評家協会賞受賞作だったとは、いやはや。
 死の問題にかんする必読書はたくさんあるが、とりあえず二冊だけ紹介しておくと、まず(2)でも挙げた Socrates の "Apology"(B.C.399ごろ)。再度引用しましょう。to be afraid of death is only another form of thinking that one is wise when one is not; it is to think that one knows what one does not know. No one knows with regard to death whether it is not really the greatest blessing that can happen to a man; but people dread it is as though they were certain that it is the greatest evil; and this ignorance, which thinks that it knows that it does not, must surely be ignorance most culpable. ……if I were to claim to be wiser than my neighbour in any respect, it would be in this; that not possessing any real knowledge of what comes after death, I am also conscious that I do not possess.(Penguin Classics, p.60)
 それから、レビューでも引用した福田恆存の『人間・この劇的なるもの』。「私たちは生それ自体のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全体的な構造のうへに立つて、はじめて生命の充実感と、その秘密に参与できるのだ」。

 じつは福田先生とは、いちどだけお会いしたことがある。その時の話題は「死」だった。きっとなにかの縁だったのでしょうな。(了)