ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Kiran Desai の “The Loneliness of Sonia and Sunny”(3)

 先日から読んでいる Susan Choi の "Flashlight"(2025)、いまのところとても快調で、ひょっとしたら表題作を上回るかも、と思えるほどの出来ばえだ。「才女才におぼれた凡作」ながら、全米図書賞を受賞した "Trust Exercise"(2019 ☆☆★★★)とは大ちがい。太平洋戦争中および戦後の在日朝鮮人一家の話もあって、当時の日本の日常生活が詳細に描かれ、しかも政治的プロパガンダは皆無。いつものただの勘だけど、これ、邦訳が出そうですな。
 ただ、ここは前のくりかえしだよね、というくだりがちょっと残念。といっても、今年のブッカー賞受賞作 "Flesh"(2025)とくらべると、ムダな描写、ムダなエピソードは断然少ない。あちらはヒドかった(☆☆☆★)。
 その点、Kiran Desai のほうの饒舌は、ムダといえばムダなんだけど、まあ、しょうがないかなあとも思える細部から成り立っている。「インドの伝統と文化、宗教、風習など、およそありとあらゆるインド人の生活の諸要素とその現状・変容が逐一報告され」、「重厚にして緻密、長大にして微細。『インド人もびっくり』しそうなインド料理のフルコースだ」。
 うっかり、なにげに「インド人もびっくり」と書いてしまったけれど、これ、若いひとたちに通じるのかな。ネット情報によると、「1964年のS&BカレーのCM(芦屋雁之助が演じるインド人がカレーの美味しさに驚く)から生まれた言葉で『予想をはるかに超える美味しさや出来事に驚いた時』に使う表現」です。
 ともあれ伝統や文化、宗教などとくれば、その具体例の取捨選択はなかなかむずかしそうだ。これを挙げるなら、あれも捨てがたいよね、というわけで本書は「現代インド人百科全書」となったのではないかしらん。前回の引用をくりかえすと、A writer itched and itched to put everything into a book(p.507)
 しかしながら、以上はあくまでインド人全体にかかわること。もっと個別の問題についてはどうか。Sonia はこうも述懐している。Could she write all the love stories she knew?  Grandfather Siegfried and Grandmother Anjolie, ... Ba and Dadaji ... Marie and Cole ... Papa's itch and torment, her mother's fleeting into the past. ... Would these stories intersect and make a book?  How would they hold together?(pp.601 - 602)
 このくだりも作者の声を代弁したものとみてよさそうですな。つまり、上のように Sonia とその家族、友人知人だけでなく、もうひとりの主役 Sunny とその関係者についても、Desai は Could she write all the love stories she knew? と考えたのでは。
 じっさい本書では、ほとんどどの人物にかんしても、なんらかの love stories が紹介されている。で、それが積もり積もって頂点に立っているのが love story of Sonia and Sunny。いやはや、道理で長くなるわけです。(つづく)

シュナーベルにつづいてポリーニを聴いている。ポリーニベートーヴェンは毀誉褒貶かまびすしく、レコ芸の名盤特集では絶賛する評論家が多い一方、宇野功芳などは「こんなのはベートーヴェンでも何でもない!」と酷評。ぼく自身は音感が鈍いのでよくわからないけど、いまBGMで流している初期の作品にかぎっていうと、きれいでおとなしい印象をうける。やや宇野説に賛成かな)

 

Kiran Desai の “The Loneliness of Sonia and Sunny”(2)

 ああ、ガックリ!
 先日、退院してはじめて再診、血液検査をうけたころ、相変わらず悪玉コレステロールが基準値以上だったため、高額医療の注射が必要との診断だった。食事や運動その他、あんなにがんばったのになぁ。
 それどころか再手術の可能性まで示唆され、二度ガックリ。心臓カテーテル手術そのものより、あの導尿カテーテルのほうがトラウマになっているからだ。若くてかわいい看護婦さんにモノをつかまれ、むりやりカテーテルをいれられた、と書くと愉快な体験に聞こえるが、じっさいは思い出すだけで腰が引け、痛みまで走りそう。なんせ血尿が出ましたからな。え、あんたのモノがちいさすぎたんでしょ? 余計なお世話です!
 一方、表題作は超ビッグサイズ。ひと目で戦意喪失したものだ。上のショックから少し立ち直り、きのうからやっと読みはじめた Susan Choi の "Flashlight"(2025)もかなりのデカ本で、Desai のものといい勝負。ただの勘だけど、出来ばえも同じくらいか。
 勘といえば、じつはロングリストの段階から、今年はたぶん Kiran Desai が二度めのブッカー賞受賞だろうと思っていた。前作 "The Inheritance of Loss"(2006 ☆☆☆☆★)がとてもすばらしかったからだ。

 そこで一念発起、なんとか発表日までに読みおえようとがんばった。しかし長かった。ある現地ファンもこんなコメントを寄せている。I just started Desai but won't finish for couple of months. 
 へえ、ネイティヴでもそうなんや、と気を取りなおし、いちおう目標達成。ほっとしたところで受賞結果をチェックすると、な、なんと、みごとに落選しているではないか! その後のぼくの体調とは、皮肉な「ショックつながり」でしたね。
 本書が長大な作品となった理由について、作者自身、登場人物に説明させているのでは、と思われるくだりがある。ダブル主演のひとり Sonia はこう述懐している。Could the notes for this magazine article be toward writing a novel?  When you became a real artist, all roads led to your art: the people, the landscape, the news, the gossip, the suppressed shame, the dream, the flutter in the night of a pelican who should have flown north!  A writer itched and itched to put everything into a book, or it became unbearable, the tingling. She thought it was almost too late to reclaim all she experienced before it vanished into oblivion.(p.507)
 ふっ、要は A writer itched ..... a book って話なのにこの長さ。コピーするだけで疲れた。ほかに引用したい箇所もあったけど、きょうはここまで。(つづく)

ベートーヴェンピアノソナタ全集を聴きなおしている。バックハウスにつづき、いまはシュナーベル。じっさいは Dante 盤だけど、なぜかアップできなかった)

 

Jim Crace の “Being Dead”(3)

 お気づきかもしれませんが、"Flesh" のレビュー、結論部分だけ加筆修正。おとといの夜、ふと目がさめてトイレに行ったあと、ひらめいた。睡眠不足が気になったけど、拙文のほうがもっと気になり、10分くらいだったかパソコンにむかった。
 退院後のいまは毎日がリハビリで、注意点を挙げると、じゅうぶんな睡眠をふくめた規則正しい生活、悪玉コレステロールの低下を心がけた食事、適度の運動と筋トレ。
 というわけで、きのうは血圧が上がりはしないかと心配だったが、さいわい安定していた。でも心配のしすぎなど、メンタル面のコントロールも大切なのだとか。むずかしいですな。
 メンタル面といえば、ひさしぶりにベートーヴェンをBGMに聴いている。例の「嘆きの歌」が入ったピアノソナタ第31番。病人にはあまりにも定番すぎると思ったけど、最初に手に取ったバックハウスがやっぱりすばらしく、ほかのピアニストのものも何枚か聴いてみた。どれもよかった。
 朝は食事の前、YouTube でニュース番組を見ている。入院中、テレビよりスマホのほうが面白いことに気づいたからだ。YouTube ではテレビや新聞の報道を紹介しながら解説が加えられているので、いわば表と裏のちがいがよくわかる。どちらが正しいか判断するのはぼく自身。災い転じて福となすってほどじゃないけど、考える選択肢がひろがったのは入院のおかげだ。
 ともあれ、ちょっとした「臨死体験」によって毎日の生活が変わり、つまりは死を意識するようになった目で表題作をふりかえると、「荒涼とした海岸の砂丘で撲殺された動物学者の夫婦ジョセフとセリース。ふたりの死体が生き物の餌となり腐敗していくようすがネクロフィリアさながら、克明精緻に綴られる。たしかにひとの『死んでいる』姿とは本来、それが自然のありようである」。
 というか、これがもし映画だったら目をそむけたくなるようなシーンの連続である。「死体が生き物の餌となり腐敗していくようす」なんて、べつに「克明精緻に綴」るまでもない。ちょっと想像するだけで、おぞましい映像がすぐに浮かんでくるからだ。これが減点材料その一。
 その二は、「ふたり(ジョセフとセリース)の出会いを描いた過去篇は定番の青春小説で、当日の死にいたる過程や、夫婦と娘シルとの断絶、知らせをうけたシルの反応など、どれも家庭小説でありがちなもの」であること。
 その三、「ジョセフもセリースも崇高な人物ではない」こと。「みごとな人生を生きた人間の死は、それがどんなにむごたらしい死にざまであってもひとを感動させる。作者はそう思ったことがないのだろうか」。
 要するに、being dead 以外の内容がお粗末なのだ。しかるにこれが2000年の全米批評家協会賞受賞作だったとは、いやはや。
 死の問題にかんする必読書はたくさんあるが、とりあえず二冊だけ紹介しておくと、まず(2)でも挙げた Socrates の "Apology"(B.C.399ごろ)。再度引用しましょう。to be afraid of death is only another form of thinking that one is wise when one is not; it is to think that one knows what one does not know. No one knows with regard to death whether it is not really the greatest blessing that can happen to a man; but people dread it is as though they were certain that it is the greatest evil; and this ignorance, which thinks that it knows that it does not, must surely be ignorance most culpable. ……if I were to claim to be wiser than my neighbour in any respect, it would be in this; that not possessing any real knowledge of what comes after death, I am also conscious that I do not possess.(Penguin Classics, p.60)
 それから、レビューでも引用した福田恆存の『人間・この劇的なるもの』。「私たちは生それ自体のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全体的な構造のうへに立つて、はじめて生命の充実感と、その秘密に参与できるのだ」。

 じつは福田先生とは、いちどだけお会いしたことがある。その時の話題は「死」だった。きっとなにかの縁だったのでしょうな。(了)

David Szalay の “Flesh”(1)

 ゆうべ今年のブッカー賞受賞作、David Szalay の "Flesh"(2025)を読了。David Szalay(1974 - )はハンガリー系作家としてはじめてブッカー賞を受賞。Wiki によると、Szalay said that he "wanted to write a book that stretched between Hungary and London and involved a character who was not quite at home in either place."
 旧作 "All That Man Is"(2016 ☆☆☆★★★)は2016年のブッカー賞最終候補作だったので、Szalay は今回みごとに雪辱を果たしたことになる。さっそくレビューを書いておこう。

Flesh

Flesh

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[☆☆☆★] ハンガリーの小さな街に生まれ育ち、イラク戦争に参加したあとロンドンに移住、コロナ禍をへて故郷に舞い戻った男イシュトヴァン。そんな履歴をきくと日本人にはおよそ関係のない話に思えるかもしれない。しかしなかには身につまされるひともいるはずだ。イシュトヴァンの決まり文句は「オーケー」。寡黙で自己主張せず、相手の意思や周囲の状況を抵抗なく受け容れ、本質的に希薄な人間関係しか結べない。現代人のひとつの典型的な姿ともいえるのではないか。年上の女に童貞を奪われ、運転手として雇ってくれた実業家の妻に誘惑され、子守の娘や家政婦、ワインバーの女と寝て別れる。一見ドンファンのようだが色好みではなく、むろん恋愛愛情もなく、その場の成りゆきで関係しているだけだ。精神なき形骸、「肉体」とは、いいえて妙のタイトルである。そんなイシュトヴァンでも強い衝動にかられ、ひとり涙を流すことがある。失恋後の志願入隊、自制心の欠如による暴行、亡き妻子への思い。彼の人生で転機となった事件のいずれにも、濃密な人間関係を築けなかったことへの反動、もしくは後悔が、浅いものだが読みとれる。結末が示すとおり、イシュトヴァンは孤独な人間なのだ。ひとと深くかかわりたい気持ちはあっても性格的にそれができない。性格悲劇だったシェイクスピア悲劇とは異なりスケールはいかにも小粒。まさに現代人らしい小人の悲しい人生の物語である。そんな人生に「身につまされるひと」こそいても、深い感動をおぼえる読者がいるとはとても思えない。名作古典の時代は遠くなりにけり。

Andrew Miller の “The Land in Winter”(1)

 退院後4日目。今年のブッカー賞最終候補作、Andrew Miller の "The Land in Winter"(2024)をやっと読みおえた。Andrew Miller(1961 - )は本書の舞台のひとつ、ブリストル生まれのイギリス人作家で、ブッカー賞のショートリストにノミネートされたのは、第3作 "Oxygen"(2001未読)以来2回目。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★] 1960年代の初め、雪に閉ざされたイギリス西部ブリストル近郊の村。精神病院の患者の自殺で幕をあけ、暗い冬のミステリアスな雰囲気に惹かれるが、事件そのものは本篇とはほとんど無関係。病院から連絡をうけた地元の医師エリックと、身重の妻アイリーン、その隣人で農場主のビルと、やはり身重の妻リタの四人が交代で主役をつとめ、それぞれ直面した心の危機について赤裸々に告白する。つらい記憶、肉親との確執、妊婦としての不安や焦り、経営上の悩み、不倫、結婚生活の破綻。彼らが目にする光景はどれも心象風景に近く、さりげない詩的な描写にしみじみとした味わいがある。四人の思いが最後、ひとつに収斂する展開もみごと。が、それだけだ。プロローグから終幕まで、静かな冬の村の人びとでも、心のなかは時に嵐が吹き荒れている、という当たり前の話がムードたっぷりに綴られるだけ。第二次大戦の爪痕や、ナチス強制収容所への言及にしても添えものにすぎず、掘りが浅い。一事が万事、皮相な「雰囲気小説」である。

Jim Crace の “Being Dead”(2)

 いやはや、この一週間、冥土の旅の三里塚あたりまで出かけていた。
 先週木曜日の早朝、右胸に激痛が走り、ぜん息の発作かと思って近くの大病院に急行。いろいろな検査の結果、たしかにぜん息ではあるけれど、高感度トロポニンの数値が高いという。
 そこで翌金曜日、血液と心電図の再検査。その結果を受けて医師から、きょうは入院かも、といわれ、思わず「えっ」。やがて超音波検査、CT検査となり、挙げ句の果てに心臓カテーテル手術。翌土曜日の午後まで集中治療室に缶詰めとなった。
 入院中、枕元には "The Land in Winter"(2024)を置いていたのだけど、いちど持っただけで手が疲れ、その後まったく読む気がせず、スマホYouTube ばかり見ていた。テレビもちょっと見たけど、もともと朝昼のご飯どき、ニュース番組やワイドショーを見るだけだったので興味が湧かなかった。
 YouTube では最初メジャーリーグ、とくにMVP関連のものだけ見ていたが、そのうち、あることに気がついた。地上波できちんとした服装をして、ことばづかいもフォーマルだった解説者が、YouTube では居酒屋などでラフなかっこうで雑談ふうにしゃべっている。つまりテレビは表、YouTube は裏と使いわけているらしい。その表と裏の関係が野球にかぎらず、ほかのニュース、たとえば時事問題にも当てはまることに気づいたのだ。
 具体的にいうと、YouTube のほうが圧倒的に深掘りしている。直近の出来ごとだけでなく、その背景や過去のいきさつ、事件のもつ意味などについて、地上波以上に詳しく、相反する立場を紹介しながらロジカルな解説を試みている。それにひきかえ、地上波では一方的でおおざっぱな感情論が目だつ。以前からわりと感じていたことだけど、こんどの入院生活でよくわかった。
 手術中は局所麻酔だったので、「インフレーション……5秒……10秒……デフ」などという医師たちのかわすことばがよく聞こえた。そのたびに脳裡にうかんできたのは、亡父や、施設入所中の母、家人と子ども、孫たちの顔。それから、つい一ヵ月前に帰省して掃除したばかりの田舎の墓。そんな映像の去来していたときが冥土の旅の三里塚くらいだったのか。
 さて、ほんとうは一週間前に採りあげるはずだった作品のタイトルが "Being Dead"(1999)。ちょっと出来すぎた偶然ですな。
 Socrates は "Apology"(B.C.399ごろ)でこう述べている。to be afraid of death is only another form of thinking that one is wise when one is not; it is to think that one knows what one does not know. No one knows with regard to death whether it is not really the greatest blessing that can happen to a man; but people dread it as though they were certain that it is the greatest evil; and this ignorance, which thinks that it knows that it does not, must surely be ignorance most culpable. ……if I were to claim to be wiser than my neighbour in any respect, it would be in this; that not possessing any real knowledge of what comes after death, I am also conscious that I do not possess it.(Penguin Classics, p.60)
 かいつまんでいうと、死後の世界のことはだれもわからない、ということだ。現代なら小学生でもピンときそうな話だけど、歴史上はじめてそう断言したひとは、たぶん Socrates 先生ですな。

 では死の直前についてはどうか。上のぼくの「臨死体験」でいうと、もし意識が少しでもあれば、家族や、自分が入る墓のことを思う機会、要は mental な体験である。
 一方、表題作では、死の直前および死の瞬間、そして死後の状況について、あくまで physical な観点から書かれている。「死とはなにか。とそう問うこと自体、多少なりとも精神的、観念的な意味をふくんでいる。が本書の答えはこうだ。『死にはなんの意義もない。それはただ、肉体が朽ち果てることだけだ』。死の問題へのこうした物理的、即物的なアプローチは斬新で、しかも一理ある。考えすぎのひともいるからだ」。
 きょうは退院したばかりなので、ここまで。(つづく)

2025年ブッカー賞発表

 きょうは速報のみ。ロンドン時間で10日、つい先ほど今年のブッカー賞が発表され、David Szalay の "Flesh"(2025)が栄冠に輝いた。David Szalay(1974 - )はハンガリー系イギリス人の作家で、2016年には "All That Man Is"(2016 ☆☆☆★★★)がブッカー賞の最終候補作に選ばれていた。

 "Flesh" は現地ファンの直前予想では5番人気だったので番狂わせといえるかもしれない。

Flesh

Flesh

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 追記:その後、同書のレビューをアップしました。