先日 "Creation Lake" をやっと読みおえ、毎年恒例のブッカー賞ランキングがほぼ完成。あとは総括のコメントを若干補足するだけとなった。これからしばらく、その下書きのような記事がつづきそうだ。
まずくりかえしになるが、ぼくの色眼鏡によると、今年はほんとうに不作。ここ何年かで最低の年だったような気がする。ピューリツァー賞のように、受賞作なしという年もあったほうが、よほど良心的なのでは、と思ったほどだ。
ここで問題は、そんな不作ぶりに「文学の水準低下」が読み取れると仮定して、その原因はなにか、ということだ。
前回(3)は、「もはや語るべきことは語りつくされてしまった現在、あとは状況と語り口で攻めていくしかない」。そこに一因があるのでは、という月並みな話だった。
今回もべつに目新しい話題ではない。表題作の無名の語り手「わたし」の「脳裡に去来するのはもっぱら、若い娘時代のつらく悲しい、あるいは苦い思い出だ。亡き両親、とりわけ病没した母」。やがて「わたし」は「修道女たちとの交流を通じて自他それぞれの過去のトラウマと対峙。死別の悲しみはもとより、罪とあやまち、赦しなどに思いをめぐらし人生を検証する」。
この人生検証、そして肉親の死をはじめ登場人物の過去のトラウマに共感できるかどうか。そこが本書を評価するうえで大きなポイントのひとつだろう、というのがぼくの立場で、結論としては、「あのとき自分はどう生きたか、どう生きるべきだったか。本書はそのことを静かに思い起こさせる佳篇である」。
ぼくの場合、死別の悲しみはとうに経験ずみだし、「罪とあやまち」となると、これはもう入りたい穴がいくらあっても足りないほど。「あのとき自分はどう生きたか、どう生きるべきだったか」。それを考えるとこんな駄文さえ綴れなくなる。よって、すべて棚上げ。
というわけで、ぼくは自分の個人的体験からして本書にけっこう共感できたほうである。ゆえに評価も☆☆☆★★。
が、残念ながら共感以上のものは得られなかった。
そもそも小説への共感とは、主人公の境遇や価値観、性格、心理・感情、周囲との関係性、ひいては作者の訴えたいことなど、もろもろの要素への sympathy である。この語の定義で小説と関係しそうなのは、Longman Dictionary of English Language and Culture によると、1 sensitivity to and understanding of the sufferings of other people, often expressed in a willingness to give help 2 agreement with or understanding of the feelings or thoughts of other people あたり。
では「共感以上のもの」とはなにか。簡単な例をあげよう。ぼくたちがシェイクスピア悲劇から得るものは、sensitivity to and understanding of the sufferings ... とか、agreement with or understanding of the feelings or thoughts ... といった次元にとどまるものでは、ぜったいにない。そんな次元をはるかに超えた高みや深みへと読者を引き上げ、引きずりこむもの。それをぼくたちは Captain Ahab や Robert Jordan からも、たしかに感じとったはずなのだ。
ところが、この "Stone Yard Devotional" にはそれが認められない。そしてこのことは、つまり、たんなる共感の「次元をはるかに超えた高みや深みへと読者を引き上げ、引きずりこむもの」の不在こそ、文学の水準低下のもうひとつの原因なのではあるまいか。
いやはや、今回も通俗的な素人文学談義になってしまいました。次回は Anne Michaels の "Held" の落ち穂ひろいをする予定。そこでさらに、「共感以上のもの」について考えてみたいと思います。(了)
(米ブルーレイ盤で見た『仄暗い水の底から』、まずまず怖かった)