ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jane Austen の “Emma”(2)

 さる2月23日から、今年もぼくのふるさと愛媛県宇和島市西江(せいごう)寺で〈えんま祭り〉がもよおされたそうだ。

 上の写真が載っている「うわじま観光ガイド」によると、宇和島には古くから閻魔信仰があり、毎年旧暦1月16日をふくむ三日間、藪入りの時期にえんま祭りが西江寺で開催され、現在まで350年以上の歴史を誇るという。「地元の人々からは『えんまさま』として親しまれ、祭りの時期になると宇和島に春の訪れを感じます」。
 ぼくも一度だけ、たしか小学校に上がる前、生きていれば今年77歳になるいとこのノブオ兄ちゃんに連れられ、えんまさまに行ったことがある。むろん上の歴史もなにも知らず、ただ屋台でお菓子を買ってもらった記憶しかない。それから、「ウソをつくと、えんまさまに舌を抜かれる」という怖い話。
 とそんなことを思い出したのは、このおやじギャグ、おわかりですね、Austen の "Emma"(1815)を読んでいたときのことだ。
 そういえば、ぼくにキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』のことを教えてくれた知人の娘さんも、ひとりはエマちゃんだっけ。その知人も去年、鬼籍に入ってしまった。
 いやはや、いつにもましてムダ口ばかりですが、むべなるかな。"Emma" が Austen の代表作のひとつだとは知っていたけど、予備知識はそれだけ。"Jane Eyre" や "Pride and Prejudice" とちがって、これは恥ずかしながら邦訳すら読んだことがなかった。三回目にして初めて、未踏の地への古典巡礼である。
 さて落ち穂ひろい。やはり英語の話からはじめよう。二冊目の Austen とあってさすがに馴れてきたせいか、"Pride and Prejudice" では奇異に感じたいくつかの点も、センセイ、またですね、とすんなり読めた。

 代名詞の指示内容と「変則カンマ」については上の過去記事で類例を紹介しているので、ここでは変則的な話法と思える例を挙げておこう。She [Emma] introduced him [Frank Churchill] to her friend, Miss Smith, and, at convenient moments afterwards, heard what each thought of the other. "He had never seen so lovely a face, and was delighted with her naïveté." And she,―"Only to be sure it was paying him too great a compliment, but she did think there were some looks a little like Mr. Elton." Emma restrained her indignation, and only turned from her in silence.(p.205)
 最初の話者は Emma なので、her naïveté の her は your がふつう。また、And she, の she は Miss Smith を指すので、but she は but I がふつうだろう。このように直接話法のなかに間接話法が混在している例は "Pride and Prejudice" にもいくつかあったが、あいにくメモは取らなかった。
 [Mrs. Elton said to Miss Woodhouse (=Emma),] "... And it [Bath] is so cheerful a place, that it could not fail of being of use to Mr. Woodhouse's [Emma's father's] spirits, ..."/ ... She [Emma] restrained herself, however, from any of the reproofs she could have given, and only thanked Mrs. Elton coolly; "but their going to Bath was quite out of the question; and she was not perfectly convinced that the place might suit her better than her father."(p.256)ふつうの直接話法なら、but our going ... is / and I am / suit me better than my father だろう。
 ... she [Emma] recommended his [Frank Churchill's] taking some refreshment; he would find abundance of every thing in the dining-room―and she humanely pointed out the door./ "No―he should not eat. He was not hungry; it would only make him hotter." In two minutes, however, he relented in his own favour; and muttering something about spruce beer, walked off.(p.341)やはり直接話法なので、I should not eat. I am not hungry / make me hotter がふつうのはず。
 こうした「変則話法」の例はぼくが気づいたかぎり、ほかにふたつあっただけで、けっして多くはない。あとの会話ではすべて現代英語と同じく、直接話法と間接話法ははっきり区別されている。
 Austen の書き癖なのか、当時は直接話法と間接話法が混在する過渡期だったのか、それともなにか個々の例に共通する混在の必然性があるのか、ぼくにはよくわからない。きっとどなたか英文科の先生が研究されていることでしょう。(つづく)

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(4)

「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。と昔からいわれるように、三学期は、あっというまに過ぎてしまいます。だからみなさん、いままで以上に一日一日がんばってください」
 大昔、ぼくが小学二年生か三年生のころ、三学期の始業式で校長先生がおっしゃったことばだ。「一日一日」は「毎日」だったかもしれないが、あとは鮮明に憶えている。「一月は~」ではじまる頭韻に、子どもながら、なるほどなあ、といたく感心したからだ。(むろん当時は、頭韻とは知らなかったけれど)。
 ともあれ、この一月なかばから、いつにもまして飛ぶように時が流れてしまった。読んだ本はたった三冊だけ。それも二冊は寝ころんで。「今年は本をたくさん読もう」と年頭に誓ったばかりなのに、早くも挫折とは、やんぬるかな。
 さて第二回の古典巡礼となった "Pride and Prejudice"(1813)、いまさらなんの説明も必要ないほどの超名作である。一回目の "Jane Eyre"(1847)同様、「そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう」。
 と思いつつ、いちおうレビューをでっち上げることにした。
 "Jane Eyre" のときは、どうしてもエリザベス朝について調べる必要を感じたので Wiki を検索し、ついでチェスタトンの『エリザベス朝の英文学』も拾い読みしたけれど、今回は参考記事・文献ゼロ。モームの『世界の十大小説』も目次しか見なかった。ぼくの勘ちがいで、『高慢と偏見』が載っていなかったらマズいと思ったからだ。
 古典について論評するときは本来、少なくとも時代背景など周辺知識を得るのが常道というか必須である。いうまでもなく、さもないと恣意的な解釈になる恐れがあるからだ。ぼくも大昔、必要があって "Moby-Dick"(1851)に取り組んだときは、当時定評のあった研究書を何冊か参考にさせてもらったものだ。
 その成果?が数十年後、本ブログに連載した「"Moby-Dick" と『闇の力』」という記事である。

 あれを書いているときも、Milton R. Stern の "The Fine Hammered Steel of Herman Melville"(1957)だけは一部読みかえした。

 しかし "Jane Eyre" もそうだったが、この "Pride and Prejudice" はまあ恋愛小説ですからね、とバカにしたわけではないけど、Melville とちがって寝ころんで読んでも罰が当たらないだろう。ずっと高血圧で頭が痛いことだし、上のエリザベス朝のことのように必要があれば起きて調べればいいさ。
 というしだいでたどり着いたのがレビューらしきもの。おそらく二百番煎じくらいの蛇足の蛇足、もしくはそれこそまさに恣意的な解釈のはずだ。

 その後もコワくて『世界の十大小説』もなにも目にしていない。チェスタトンがなにか鋭い指摘をしていそうな気もするが、どうせエリザベス朝(1558 - 1603)の話じゃないしってことで無視。
 だからこれもきっと自分勝手な感想にすぎないが、"Pride and Prejudice" は意外に現代的な小説だと思った。「現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実」、「愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合」。具体的に昨今のどんな国際情勢がぼくの頭に浮かんだか、それはもちろん「アレ」ですよ。
 むろん本書が家庭小説の鼻祖と目されていることは、なんとなく知っていた。じっさい読んでみて、その定説は一面正しいとも思った。でもいやいや、ここでは家庭というコップのなかには収まりきれない嵐もけっこう吹いてますよ、だからこれは「小さな大小説」なんです、というのがぼくのケ・ツ・ロ・ン。お粗末さまでした。(了)

Jane Austen の “Emma”(1)

 もう何日も前に "Emma"(1815)を読みおえていたのだけど、パソコンにむかうと頭が痛くなるので、きょうまでレビューをでっち上げる気にならなかった。いまもまだ本調子ではない。はて、どうなりますやら。

Emma (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★]『高慢と偏見』で文学キャリアの頂点をきわめたオースティンがさらなる高みを目ざし、同書で確立した自身の創作パターンを打ちやぶろうとした野心作。その試みは100パーセント成功しているわけではないが、欠点のある等身大のヒロイン、エマを登場させた一点だけでも世界文学史上、特別な位置を占める名作である。往年の恋愛小説のヒロインといえば、深窓の令嬢が通り相場でエマも例外ではない。彼女はしかし、みずから後悔するとおり「鼻もちならない虚栄心」と「赦しがたい傲慢さ」の持ち主で、それが彼女にとって「至福の結婚」をはばむ主因となっている。メロドラマの場合ふつう、他人の悪意や環境の激変など、もっぱら外的要素が幸福の障害となるものだが、ここではエマが自身の欠点を反省・克服しようとすることでドラマが展開。ほかにも、家族や周囲の人びと、そしておそらく大半の読者の予想に反する人物がヒーローとなったり、エマと深くかかわるカップルたちの結婚もエマの幸福に花を添えたり、はたまた、エマとちがって正真正銘スノッブの女性とエマを対比させたりと、さまざまな新工夫で「自身の創作パターンを打ちやぶろうとし」ている。反面、『高慢と偏見』にあった緊迫の対決シーンが見られないのは、幸福の障害の多くが内的なものだけに当然の帰結としても残念。同書と異なり、いかにもコップのなかの嵐らしい結婚狂騒曲となったが、傲慢と虚栄という現代人にも当てはまる万人共通の宿痾を描いてニューヒロインを誕生させるとは、さすがオースティン、みごとな野心作である。

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(3)

 きょう人生で初めて手術なるものを受けた。
 術名は鼓膜切開術。もう何週間も前に風邪をひいてからずっと右の耳が聞こえにくくなり、先週耳鼻科で診てもらったところ、急性中耳炎と判明。一週間投薬をつづけ、少しはよくなってきたが結局、鼓膜を切開し耳のなかにたまっている膿を出してもらった。
 このところ血圧が高いのも、中耳炎のせいだったのかもしれない。
 ってわけで、相変わらずパソコンにむかうのがしんどく、今回も比較的短時間で書けそうな英語の話にしぼっておこう。
 まず語彙レヴェルは予想したほど高くなく、ぼくでもソファに寝ころんで読める程度。(この「寝転読書」、洋書の場合ぼくは必ずメモを取ることにしているので、じつは姿勢ほど楽ではない。すぐに眠くなるリスクもある。デスクにむかって読んでも肩の凝らない、頭の痛くならない軽い内容のもの、たとえばミステリとか冒険小説あたりがおススメ。ただし、エンタメ系でも語彙的にむずかしいものもあるのでご用心)。
 文法的には現代英語とは明らかに異なる点がいくつかある。前回は紹介しなかったが、直接話法のなかに出てくる he, she が話者の I を指している場合がある。もちろん第三者の場合のほうが多いけど、すべて文脈しだい。
 しかしこれはすぐに、あ、そうなんだ、と気づくので問題ない。困るのは、前回の引用例を筆頭に、地の文に出てくる代名詞の指示内容が、たまにだけど、わかりにくいこと。なにしろ、native speaker でさえ頭をヒネるほどだ。復習ですが、文脈や人物関係がよく頭に入っていないと、「すぐに眠くなるリスク」がある。
 さいごに、現代英語ならふつうこんなところにカンマは打たないでしょう、と思われる「変則カンマ」の例を挙げておこう。たぶん前半から出ているはずだが、ぼくがメモを取ったのは後半。
 My dear Lizzy, you cannot think me so weak, as to be in danger now.(p.320)現代英語では so weak as が通例のはず。
 They were confined for the evening at different tables, and she had nothing to hope, but that his eyes were so often turned towards her side of the room, as to make him play as unsuccessfully as herself.(p.323)これも hope but, room as のほうが通例では。
 You are each of you so complying, that nothing will be ever be resolved on; so easy, that every servant will cheat you; and so generous, that you will always exceed your income.(p.329)この例で初めて、たぶん、カンマを打ったほうが形容詞の程度の強さがよく伝わるんだろうな、とは思った。そういえば、上の第1例もそういうことなんだろう。第2例にしても、nothing to hope, so often が強調されているような気もする。
 でもやっぱりぼくには「変則カンマ」と思えるのですが、どうでしょうか。
 For, though your accusations were ill-founded, formed on mistaken premises, my behaviour to you at the time, had merited the severest reproof.(p.347)
 これが time had となっていないのも behaviour to you の強調なんですかね。(つづく)

(難聴につきCD も最近ほとんど聴かなかった。今年に入ってずっとベートーヴェンを聴いていたのは偶然だろうな)

Buchbinder - Beethoven The Sonata Legacy

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(2)

 十九世紀英文学の古典探訪第二回。これでやっと『高慢と偏見』も "Pride and Prejudice" となった。
 ただし、中学生のころだったか読んだ邦訳版では、たしか『自負と偏見』だったような気がする。未見のジョー・ライト監督作品は『プライドと偏見』(2005)

プライドと偏見 [Blu-ray]

 昔の記憶は "Jane Eyre" よりもさらになく、なんとなく、けっこうおもしろかった、という程度。このほど英語で読んでみて、中学生じゃわかるわけないな、と思える内容だったので、「なんとなく」うんぬんも怪しい。おとなの文学ですね、これは。
 "Jane Eyre" と同じく超有名な古典だが、うちの家人は知らなかった。しかし文学ファンなら読んでいて当たり前。未読のかたでもタイトルくらい耳にしたことがあるのでは。いまさら感想を報告するまでもないだろうと思ったけど、レビューもどき以外に、二、三書き留めておきたいことがある。
 しかしこのところ、表題作もそうだったが、小林信彦のいうように「本は寝ころんで」。血圧が高いせいか頭が重く、デスクにむかうのも、ましてやパソコンを打つのもしんどい。さっさとこの駄文を切りあげるべく、きょうは英語について気がついた点だけ挙げておこう。
 いくつかあるが、まずカンマの位置。Jane Austen の書き癖なのか、当時は正用法だったのか、このカンマ、現代英語ではふつうこんなところには打たないよね、と思える「変則カンマ」があり、あ、またこのカンマか、と馴れるまで当初は苦労した。実例は、と書きかけたが、ここでもうちょっと頭が痛くなってきたのでカット。
 第二に、代名詞の指示内容。通常、he, she は直前の固有名詞を指すものだが、その指しているはずの人物が直前ではなく、かなり前に登場し、そのあいだにべつの人物が出てくる場合がある。文脈的にはありなんだろうな、と思ったけど、これも馴れるまで違和感があった。
 その最たる例はここだ。To no creature had it been revealed, where secresy was possible, except to Elizabeth; and from all Bingley's connexions her brother was particularly anxious to conceal it, from that very wish which Elizabeth had long ago attributed to him, of their becoming hereafter her own.(Penguin Classics, p.257)
 どうやらこれも有名なくだりらしく、"Jane Eyre" を読んでいるときもお世話になった WordReference.com Language Forums を訪ねたところ、こんなやりとりがあった。
(質問者 jinti) Hey ... I've been studying this quotation from Jane Austen's book for nearly 30 minutes only in vain to find what the
1) which Elizabeth had long ago attributed to him is referring to,and
2) underlined "their becoming" implies. Particuarly what "their" is indicating, or whom.
This question may be answerable only to those who have read the book several times or who have adequate knowledge over it./ This dialogue's from Chapter 45./ I'd really appreciate, if you would put your answer forward and answer this.
(回答者 shiness) Here's an annotated version of the paragraph from http://www.pemberley.com/janeinfo/pptopics.html:
This paragraph in chapter 45, during the visit to Pemberley, after Miss Bingley's snide remark about the militia being removed from Meryton, does in fact mean that Darcy had hoped that his sister would marry Bingley; here's a version of the paragraph with annotations supplied by Arnessa:
"Had Miss Bingley known what pain she was then giving her beloved friend [Miss Darcy], she [Miss Bingley] undoubtedly would have refrained from the hint; but she had merely intended to discompose Elizabeth, by bringing forward the idea of a man [Wickham] to whom she [Miss Bingley] believed her [Elizabeth] partial, to make her betray a sensibility which might injure her in Darcy's opinion, and perhaps to remind the latter [Darcy] of all the follies and absurdities by which some part of her [Elizabeth's] family were connected with that corps. Not a syllable had ever reached her [Miss Bingley] of Miss Darcy's meditated elopement. To no creature had it been revealed, where secresy was possible, except to Elizabeth; and from all Bingley's connections, her brother [Darcy] was particularly anxious to conceal it, from that very wish which Elizabeth had long ago attributed to him [Darcy], of their [the Bingleys] becoming hereafter her [Miss Darcy's] own [connections]. He [Darcy] had certainly formed such a plan, and without meaning that it should affect his [Darcy's] endeavour to separate him [Bingley] from Miss [Jane] Bennet, it is probable that it might add something to his [Darcy's] lively concern for the welfare of his friend. [Bingley]."
 けっきょく、文脈や人物関係がよくわかっていないとむずかしい、ということですね。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(5)

 映画でも小説でも対決シーンがあるとガ然盛りあがるものだ。西部劇がいい例で、ヒーローが勝つに決まっているとわかっていても思わず目が釘づけになる。

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 表題作にもいくつか対決シーンがあり、もちろん勝敗がからんでいるわけではないが、そのピリピリした緊張感たるや超ド級。'... You told Mr Brocklehurst I had a bad character, a deceitful disposition; and I'll let everybody at Lowood know what you are and what you have done.'/ 'Jane, you don't understand these things; children must be corrected for their faults.'/ 'Deceit is not my fault!' I cried out in a savage, high voice./ 'But you are passionate, Jane, that you must allow; and now return to the nursery―there's a dear―and lie down a little.'/ 'I am not your dear; I cannot lie down: send me school soon, Mrs Reed, for I hate to live here.'(p.46)
 開幕から、ああそうだったっけ、と昔の記憶をたどりながら読んでいたのだけど、この Jane と Mrs Reed の火花が散るようなバトルで意識は現在進行形。Jane をいじめる Mrs Reed の仕打ちがあまりにひどく、ここで猛然といい返すJane に、やれいけ、それいけ、と声をかけたくなるほど惹きこまれた。
 ついで、Mrs Reed の意を汲む Mr Brocklehurst に教師や生徒たちの面前で、'Who would think that the Evil One had already found a servant and agent in her? Yet such, I grieve to say, is the case.' / ... '... this girl is―a liar!'(p.78)と罵られ、理不尽な懲罰をうける場面もすごかった。Jane は口ではなにも反論しないので対決とはいえないが、むろん腹のなかは煮えくりかえっている。「彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う」。
 でもまあ、このふたつのバトルでは西部劇のように善玉悪玉がはっきりしていて、よもや Mrs Reed  や Mr Brocklehurst に肩いれする読者がいるとは思えない。
 第三のバトルは Jane vs Rochester だが、これはメロドラマとしての本書の山であり、有名な話なので割愛。
 それよりぼくが圧巻だと思ったのは牧師セント・ジョンとの対決である。このほど英語で読んでみて記憶からすっかり抜けおちていたことを発見。きっと高校生のときはピンとこなかったはずだ。年をとり妙なところに感心するようなったのかもしれないけれど、とにかくここは本書でいちばん「知的昂奮を味わえる箇所」だろう。
 Mrs Reed や Mr Brocklehurst とちがって、St John の主張には彼なりに相当な理論的根拠があり、これをくつがえすのは至難のわざに思える。'Jane, come with me to India: come as my help-meet and fellow-labourer.'/ ... 'Oh, St John!' I cried, 'have some mercy!'/ I appealed to one who, in the discharge of what he believed his duty, knew neither mercy or remorse. He continued:―/ 'God and nature intended you for a missionary's wife. It is not personal, but mental endowments they have given you: you are formed for labour, not for love. A missionary's wife you must―shall be. You shall be mine: I claim you―not for my pleasure, but for my Sovereign's service.' / 'I am not fit for it: I have no vocation.' I said(p.448)
 おまえを愛しちゃいないけど信仰のためにおれについてこい、というのはかなりのムチャぶりだけど、それを大まじめに説きつけようとする情熱は狂信的であり、狂信ほど手ごわいものはない。
 そんな St John を Jane は冷静に観察している。To me, he was in reality become no longer flesh, but marble; his eye was a cold, bright, blue gem ...(p.457)そして彼の妹 Diana にこう述べる。'He is a good and a great man: but he forgets, pitilessly, the feelings and claims of little people, in pursuing his own large views.'(p.463)
 このくだりを読んでいて、ぼくはベルジャーエフの『人間の運命』を思い出した。「血のかよわない、抽象的で非人格的な愛や個々の人間の魂を認めようとしない精神的な愛は、実は愛ではない。それは残酷なまでに狂信的で非人間的な愛である」。さような「非人格的な愛」とは「ガラスの愛」である。(野口啓祐訳)
 Jane が St John の説得に応じなかったのはいうまでないが、幕切れで彼女はこうしるしている。The last letter I received from him drew from my eyes human tears, and yet filled my heart with Divine joy ... No fear of death will darken St John's last hour: his mind will be unclouded; his heart will be undaunted; his hope will be sure; his faith steadfast.(p.502)
 つまり Jane は St John を全否定しているわけではない。そこからぼくはこんな結論を導いたのだけど、たぶん素人文学ファンの早トチリでしょうね。「ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう『ヴィクトリア朝的妥協』とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか」。(了) 

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(1)

 先週またもや風邪をひいたせいか、いっとき落ちついていた血圧がふたたび急上昇。文字どおり頭をかかえながら "Pride and Prejudice"(1813)を読んでいた。
 それがおととい、あと数ページまで漕ぎつけたところで挫折。右耳が飛行機の離発着時のように詰まり、夜半には激痛が走り、少し出血もあった。
 この季節、風邪がなかなか治らないまま脳梗塞を起こした亡父のことが思い出され、いよいよ年貢の納めどきかと案じたが、きのう診てもらったところ、さいわいコロナでもインフルでもなく、ふつうの風邪とのこと。安堵し、帰りのバスのなかで本書を読みおえた。はて、どんなレビューもどきになりますやら。

Pride and Prejudice (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★★] モームが「世界の十大小説」に挙げたことでも知られる名作だが、正確には、「小さな大小説」である。まず小たるゆえんは、ここに描かれているのが終始一貫、家庭というコップのなかの嵐だからだ。しかもその嵐は結婚狂騒曲。たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる。しかしその事実を差し引いても、やはりコップのなかの嵐には相違ない。それがなぜ「大小説」と呼べるのか。プライドと偏見という人間の宿痾をもののみごとにドラマ化した作品だからである。聡明で思慮ぶかいエリザベスでさえいっとき患ったように、この業病とまったく無縁のひとはだれもいない。それどころか、現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実を見れば、嵐はとうにコップの外でも吹き荒れている。一方、ちょうどシェイクスピア悲劇が性格悲劇であったように、本書は一面、性格喜劇である。エリザベスの母や妹たち、その取り巻きがしめす軽佻浮薄、軽挙妄動ぶりは、およそ人間が人間であるがゆえに逃れえぬ欠点から生じた可笑しさそのものであり、当時の読者はおそらく、身につまされながら苦笑爆笑したのではないか。エリザベスに一回めのプロポーズをしたときのダーシー、および彼の叔母キャサリン夫人のプライドと偏見は、これもおそらく当時の上流社会の一般常識を反映したものであり、彼らはいわば守旧派として行動している。それに抗して起ちあがったのがエリザベスというわけで、キャサリン夫人との対決に快哉を叫び、ダーシーとの和解に涙した読者もさぞ多かったことだろう。エリザベスはその合理主義、独立精神、そして純粋な愛情という点で、『ジェイン・エア』のジェインの先駆けともいえる存在である。ある場合には愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合し興味ぶかい。このように本書はいろいろな意味で小さな大小説であり、小説の本質の一端を体現している。まさに「小説神髄」である。