ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Alan Garner の “Treacle Walker”(3)

 おとといレビューをアップした "Oh William!" で、今年のブッカー賞最終候補作を読んだのは4冊め。そこで暫定ランキングもつぎのように変更した。
1.
2. Small Things Like These(☆☆☆★★★)
3. The Trees(☆☆☆★)
4. 
5. Treacle Walker(☆☆☆★)
6. Oh William!(☆☆☆★)
 1位には、読みだしたばかりの "The Seven Moons of Maali Almeida" が入るのを期待。いまのところ、けっこうおもしろく、この快調がつづけば実際受賞するかもしれない。'Do you know why deluded men crave virgins?' 'Because a virgin can't know how bad in the bed you are.'(p.14)というジョークに吹きだしてしまった。
 4位には、現地ファンの下馬評を参考に、きのう届いた "Glory" を考えているけれど、ぶ厚い本なのでしんどそう。もし落選したら例によって、未読につき番外となる可能性大。
 閑話休題。表題作はとにかく「謎と矛盾、パラドックスに満ちたカオスそのもの」の世界である。どのページでもいい、しばらく読んでいるうちに、なんじゃこりゃ!と思うこと間違いなしだ。主人公の少年ジョーが「読んでいるコミックのキャラクターが本から飛び出してドタバタ騒動を起こしたり、ジョー自身が鏡の内外や、夢と現実の世界を行き来したり」、What is out is in; what is in is out.(p.79)というクズ屋の Treacle Walker のことばは、まさにこのカオスを端的に要約したものだ。

 その Treacle Walker に Joe はこう告げる。'I can't tell what's real and what isn't.'(p.134)これに Treacle Walker は 'What is "real", ....?' と混ぜっかえすのだが、Joe は 'Don't start.' と返答(ibid.)。現実とはなにか、という議論はこれだけだ。つまり、本書における現実とは、なにが現実かわからない状態、いいかえれば、「謎と矛盾、パラドックスに満ちたカオスそのもの」だということになる。
 そこで思い出されるのが、このところぼくのワンパターンの連想だが、ロシアによるウクライナ侵攻の実態である。侵略なのか解放なのか、虐殺なのか自作自演の茶番なのか、住民投票は強制によるものか、民主的なものか、もしどちらの主張も正しければ、まさしくカオスとしかいいようがない。
 いや、事実は小説よりも奇なり、ともいえるだろう。ぼくはこれまで Marquez や Salman Rushdie のものなど、「なんじゃこりゃ!」というマジックリアリズムの小説をたくさん読み、そして楽しんできたけれど、侵略と解放が同じひとつの事実を指すという現象ほど奇怪かつ楽しめないマジックはない。
 そのマジックが生みだされる要因は、立場の異なる者同士がそれぞれ自分の正義を主張している点にある。ゆえに正義とは奇怪な現実をもたらすマジックともいえるだろう。
 が、それが現実であることは認めるとして、はたしてそのままでいいのか。この現実を変えようという意欲はだれの心にも湧いてこないものだろうか。ぼくはそう疑問に思い、"Treacle Walker" のレビューをこう締めくくった。「時間、および時間とともに変容する空間の本質がいわば、おもちゃ箱をひっくり返したようなものだとしても、それをひっくり返してはいけない、という異論がなくてはフィクションとしては面白くない。ルールはフィクションかもしれないが、ルールなきカオスの世界だけでは、少なくとも深い感動はけっして生まれないのである」。
 だが、これは小説世界の話である。流血の惨を目のあたりにして、「面白くない」「深い感動は生まれない」などと他人ごとのような感想だけですませるわけにはいかない。では、どうすればいいのか。侵攻開始以後、その答えをずっと探しつづけている。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。ぼくのクラシック専用ラックの半分は、バッハ、モーツァルトベートーヴェンが占めている。もう半分がほかの作曲家。そのうちシベリウススメタナにつづいて、いまはドヴォルザーク。そこで気づいたのだが、彼らはいずれも国民音楽といえる曲を作曲している。『フィンランディア』『わが祖国』、そしてこの『新世界より』も故国への望郷の思いを謳ったものだ。ひるがえって、日本にはそのような国民音楽があるのだろうか。ぼくがCDを所蔵している日本の作曲家は、武満徹吉松隆だけ。ふたりの曲を聴いて、ほとんどの国民が祖国に思いを馳せるとはちと考えにくい。そもそも、そんな曲がどうも存在しないように思えるのは、日本が「カオスの国」ということの証左なのだろうか)

Symphony 9

Symphony 9

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Elizabeth Strout の “Oh William!”(1)

 二兎を追う者は一兎をも得ず。2冊同時に読んでいると、わかりきった話だが、どちらもふだん以上にスローペース。それでもなんとか、きのう今年のブッカー賞最終候補作、Elizabeth Strout の "Oh William!" のほうをまず読みおえた。女流作家 Lucy Barton シリーズの近作である。さっそくレビューを書いておこう。(追記:初出の段階では「第三スケッチ集」としるしましたが、シリーズ二作目の "Anything Is Posiible" では Lucy 以外の人物も主役をつとめるので、その後「第二スケッチ集」と訂正しました)

[☆☆☆★] 女流作家ルーシー・バートンが自身の波乱に富んだ家庭生活と結婚生活を綴った第二スケッチ集。繊細で多感なルーシーの目は、今回もまるで細部をいとしむかのように日常茶飯のできごとをとらえ、過去をふりかえり、そこに人生の小さな真実を読みとり、その積み重ねがやがて家族の絆、愛と幸せという普遍的なテーマへと収斂していく。おなじみのパターンで、扱われる事件も親子の別離、夫や妻の不倫、離婚など悲痛なものが多く、やはり旧作とさほど変わりばえしない。新工夫といえるのは、再婚相手に先立たれ途方にくれるルーシーが、同じく人生の危機を迎えた最初の夫ウィリアムの哀れな姿を目のあたりにして、「おお、ウィリアム!」となんどか心のなかで叫ぶところ。いちおう感動的な場面だが、旧作で彼女がいくつか経験した忘れえぬ瞬間とくらべると見劣りがする。ドラマ性を排するのは作者ストラウトの身上だが、細部に共感をおぼえることはあっても、細部だらけで盛り上がりに欠ける点は否めない。悲しみをこえて愛の絆を求める流れも、わるくはないがパンチ不足。いかにも「小さな説」らしい小説である。

Alan Garner の “Treacle Walker”(2)

 Isabel Allende の "The House of the Spirits" をボチボチ読んでいたら、Elizabeth Strout の "Oh William!" が到着予定日よりずっと早く届いてしまった。試読したところ、どうもイマイチ。Allende のほうは相変わらずおもしろい。印象が希薄になるのがいやなので、実際やれるかどうかわからないし、ペース配分もむずかしそうだけど、2冊同時に読むことにした。
 とそこへ、Shehman Karunatilaka の "The Seven Moons of Maali Almeida" も到着。日本での注文がなぜかキャンセルされ、急遽アマゾンUKに速達便で発注したもので、こちらは早く届いて当たり前。しかし、さすがに3冊並行して読むのはむりだろう。
 それにしても、洋書にかんするかぎり日本経由の注文は、到着日の変更があったりキャンセルがあったり、どうも当てにならないことが多い。そう思うのはぼくだけだろうか。
 閑話休題。表題作は今年のブッカー賞最終候補作だが、ロングリストの段階では下馬評はそれほど高くなかった。が、以前からわりと信頼している現地ファンのひとりが1位に格付けしていたのでゲット。ところがその後、彼はショートリストの予想では本書を挙げていなかった。理由は不明。やはり、ひとは当てにならないということか。

 ともあれ、これはぼくにはどうもピンとこなかった(☆☆☆★)。少なくとも、"The Colony"(☆☆☆☆)を押しのけてまでショートリストに選ばれるほどの出来とは思えない。
 ただし、それはぼくの偏見によるところも大きいはずだ。Alan Garner といえば有名なファンタジー・児童文学作家で、『ブリジンガメンの魔法の宝石』(1960)や、『ふくろう模様の皿』(1967)など、ぼくも図書館でパラパラ読んでみたことがある。が、ハリポタをはじめ、ぼくは食わず嫌いのせいか、そもそもファンタジーにはあまり興味がない。今回も、Alan Garner の作品と聞いただけで、読む前からちょっと引いてしまった可能性はなきにしもあらず。
 さて、本書の題辞は、イタリアの理論物理学者 Carlo Rovelli の Time is ignorance ということば。ふつう題辞など目もくれないところだが、本文のつぎの一節もどうやら Rovelli に関係するらしいと、調べているうちに気がついた。To hear no more the beat of Time. To have no morrow and no yesterday. To be free of years.(p.151)
 主人公の少年 Joe に What is it you want most?(ibid.)と訊かれたクズ屋の Treacle Walker の答えだが、これがカルロ・ロヴェッリの世界的ベストセラー『時間は存在しない』に由来するようなのだ。理系オンチのぼくはもちろん、なにもかも初耳。このくだりに引っかかりを感じなければ、題辞に戻ることも、ロヴェッリについて検索することもしなかっただろう。ついでに上のベストセラーにかんする解説も読んでみたが、よくわからなかったし、いまや憶えてもいない。
 憶えているのは、本書の内容が「謎と矛盾、パラドックスに満ちたカオスそのものである」ことだけ。その典型例はレビューに挙げておいた。ひとつだけ繰りかえすと、What's out is in; what's in is out.(p.73)という、Joe が出会った沼地の住人 Thin Amren の発言。Treacle Walker もまったく同じセリフを発している(p.79)。まさに本書のカオスを象徴することばだと思う。
 このカオスの世界に上の時間理論を持ちこんだのが本書である。ぼくは読後、「時間、および時間とともに変容する空間の本質がいわば、おもちゃ箱をひっくり返したようなもの」かもしれないと、わけがわからないまま思ったのだけど、たぶん当たらずしも遠からず、といった程度の理解でしょうな。(この項つづく)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。オッコ・カムのTDK盤のほうがいいと思ったけど、なぜかアップできなかった)

 

Robert Walser の “Jakob von Gunten”(2)

 スイスの作家 Robert Walser(1878 – 1956)のことは、レビューのイントロにも書いたとおり、もう10年ほど前だったか、いまは亡き優秀な英文学徒T君に教えてもらった。「Walser はいいですよ」という彼のことばは、いまだにはっきり耳にのこっている。
 どこがどういいのか、そこまでは聞かなかった。とにかく彼が推薦するのなら、と表題作(1909, 英訳1969)、それから "Selected Stories"(英訳1982)を買い求めたが、この夏までずっと(短編集のほうはいまだに)積ん読。しかも、ドラ娘が企画した盆休みの旅行中、お荷物と化した "Jakob von Gunten" を読みおえたのは、けっきょく家に帰ってから。T君には申しわけない雑な読みかたをしてしまった。

 T君とはなんどか文学談義をかわしたものだが、ふたりとも意見が一致したのは、Sebald のすばらしさ。「あれはすごい!」と異口同音に叫んだおぼえがある。

 今回 Walser を読んでみて、Sebald と似たような味わいがあり、T君はたぶん繊細なタッチの作品が好きだったんだな、と気がついた。英文科の学生だったが、ヨーロッパ文学ではなく、専門の英米文学では、どんな作家や作品について研究するつもりだったのか、それも聞きそびれてしまった。話題にした作家に絞ると、Millhauser あたりを考えていたのかもしれない。

 Walser の作品を Kafka が愛読していたことは、"Jakob ...." のレビューを書くにあたり、経歴を調べるまで知らなかった。知ってみると、たしかに本書には Kafka の作風にも近いものがある。

 主人公の17歳の少年 Jakob von Gunten は上流階級の生まれながら、an urge to learn life from the roots, and an irrepressible desire to provoke people and things into revealing themselves to me(p.122)という動機で、召使いを養成する専門学校に入学する。ところが、教員は足りず、いても居眠りしてばかり。教室に現れるのは校長の娘 Lisa だけで、それも How Should a Boy Behave? という問題について指導するのみ(p.5)。まことにケッタイな学校で、こうした不条理な状況の先に『城』があるともいえそうだ。
 この Lisa に Jakob は思いを寄せ、Lisa もまた Jakob に好意を示し、校内の奥にある別室へと誘いこむ。Lisa はさながら the enchantress who had conjured up all these visions and states で、Jakob は Had I been dreaming? .... I am living in a fairly tale and am no longer a cultured being in an age of culture. と述懐(p.109)。こんな「夢と幻想のいりまじったシュールな世界」も Kafka を思わせるものだ。
 Jakob は校長ともヘンテコな関係になるが省略。ともあれ学校は廃校となり、Jakob は校長ともども旅立つことに。The pupils, my friends, are scattered in all kinds of jobs. And if I am smashed to pieces and go to ruin, what is being smashed and ruined? A zero. The individual me is only a zero. But now I'll throw away my pen! Away of the life of thought!(p.176)これに先んじて Jakob の見た旅の夢がこうだ。It looked as if we had both escaped forever, or at least for a very long time, from what people call European culture.(p.174)
 こうしたくだりをぼくは次のようにまとめたのだけど、T君が読んだら、そのトンチンカンぶりにたぶん苦笑したことだろう。「現実そのものが揺らぎ、彼(ヤーコプ)の思索はたえず断片のまま彷徨をつづけ、やがて『存在の無』『考える生活の放棄』へとたどり着く。作者はそれを『ヨーロッパ文化からの逃走』と形容している」。
 上の例にかぎらず、本書には含蓄に富んだ文言がそこかしこにある。ぼくはたまたま、この不条理で「夢と幻想のいりまじったシュールな世界」が、ヨーロッパ文化の一翼をになう理性や論理的思考と対極にあるものではないか、Walser は「もしかしたら理性を重んじる啓蒙思想への反逆」を試みたのかも、と思える箇所に目がとまったにすぎない。
 Jakob の、そして Walser の「鋭敏かつ繊細な感覚」は、素人文学ファンのぼくには想像もつかないような深い真実をとらえていた気がする。そのあたり、T君の意見をぜひ聞きたかった。合掌。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

 

Claire Keegan の “Small Things Like These”(2)

 このところ、ペルーの著名な作家 Isabel Allende の "The House of the Spirits"(1982, 英訳1985)をボチボチ読んでいる。未読の今年のブッカー賞候補作を入手するまでの場つなぎに(途中で乗り換える可能性あり)、と思って取りかかった。
 開幕から物語性豊かな作品で、たしかにおもしろいことはおもしろいのだけど、期待していた、あのラテアメ文学独特のマジックリアリズムとはどうもちがう。これ、ふつうのリアリズムじゃん、というのが第一印象。が、やっといま、タイトルどおりマジックリアリズムらしい要素がまぎれこんできた。ただ、リクツのあるマジックという気もするのだけど、どうなんだろう。
 閑話休題。現地ファンの下馬評をチェックすると、表題作は "The Seven Moons of Maali Almeida"(未読)、"The Trees"(☆☆☆★)とならんで、ブッカー賞レースの上位グループを形成している。とそう知ってもあまりテンションは上がらないのだが、ぼくもいちおう暫定ランキングを発表しておこう。(空白に未読作が入るものと期待)。
1. Small Things Like These(☆☆☆★★★)
2.
3.
4.
5. The Trees(☆☆☆★)
6. Treacle Walker(☆☆☆★)
 ロングリストの発表前、いつだったか現地ファンのコメントを読んでいたら、ロシアのことが背景にあるせいか、「今年の候補作のうち、ディストピア小説はどれくらいの割合を占めるだろうか」という予想が話題になっていた。その結果は見過ごしてしまったけれど、ぼくの独断と偏見によれば、ディストピア小説ではなく、ウクライナ侵攻問題についてどう考えるか、という点からも読み解ける作品が多いように思う。本書もそうだ。

 これは「隣人愛を静かに謳った感動のクリスマス・ストーリーである」。「感動の」というのは宣伝文句ではなく、ぼくはほんとうに目頭が熱くなった。「自己犠牲ほどむずかしい善行はない」が、これほどひとの胸をうつ善行もまたほかにないだろう。
 もしかしたら自分を犠牲にして他人のために尽くした最たる例はイエス・キリストかもしれない。それゆえ本書のような作品が、あちらでは高く評価されるのだとも考えられる。
 が、現実にはやはり、「自己犠牲ほどむずかしい善行はない」。ウクライナへの欧米の支援ひとつとっても、それぞれの国はまず自国の利益を考え、国益にかなうという条件つき、ないしはその範囲内で援助をおこなっているようだ。自国を犠牲にしてまでウクライナを助けようとしている国はひとつもない。
 とそんなふうに「針小棒大に解釈すれば、(本書は)昨今の国際情勢にも通じる道徳的問題をはらんだ現代版『クリスマス・キャロル』である。(主人公の)ビルはスクルージとちがってエゴイストではないだけに『話そのものは単純』だが、これを読んで心を動かされないひとはたぶん、いないだろう」。
 だからぼくも暫定1位に格付け。本書が先頭争いを演じていることに異論はない。その内容どおり、シンプル・イズ・ベストということか。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

 

Tayeb Salih の “Season of Migration to the North”(3)

 まったりペースながら海外の小説を読んでいると、おそらく日本の現代文学ではさほど扱われていないのではと思えるような問題について考えさせられ、しかもそれぞれの問題に関連性のあることが、たまにある。coincidence の妙というべきか。
 不可解なことにブッカー賞ショートリストに入選しなかった "The Colony" では、ゴーギャンの名画『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』が紹介され、その具体的な意味として、「この地球で我々はいかに共存するか」という今日いまだに未解決の問題が浮上。そのうえで、「ものごとを単独の視点から固定的にとらえるのではなく、すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」立場がひとつの答えとして示されていた。

 ぼくはこの linear view にいたく感心し、「危機の時代を生きる知恵」と評したのだけれど、その後、これとかかわる記述を表題作で見つけた。see with one eye, speak with one tongue and see things either black or white(p.125)こんな偏見や固定観念こそ、「ものごとを単独の視点から固定的にとらえる」見方そのものではないか。

 一方、linear view からすれば、そこに映るものは当然、"Season of Migration ...." の Mustafa が心の内外で体験したような「分裂と衝突」、つまり矛盾に満ちた人間のありのままの姿である。「すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」とは、矛盾を矛盾のままに受け容れるということでもあろう。
 と、ここまでは "The Colony" と "Season of Migration ...." は軌を一にしている。が、後者は Mustafa の分裂と衝突ではなく、語り手が「最後、北へ南へと流れるナイル川のなかで生死のはざまをさまよいながら、ある決断をくだす」シーンで幕を閉じる。
 これを読んだぼくは、「分裂から決断へ、というのはすこぶる人間的な生きかた」だと感動したものだけど、それがなぜ人間的なのかというと、ひとはふつう、いつまでも「変化と流動のみを是とする相対主義」に甘んじてはいられないからだ。
 上の偏見・固定観念にたいして、see with both eyes, speak with more than one tongue and see things both black and white という見方は、うまく機能すれば、「すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」、「矛盾に満ちた人間のありのままの姿」を「矛盾のままに受け容れる」力、一言でいえば、すぐれたバランス感覚の源となる。
 ところが、それはひとつまちがえると、なんでもあり、どんな事態が起きても許容するという「変化と流動のみを是とする相対主義」、ひいては日和見主義に堕してしまう恐れがある。
 ここで思い出されるのが、この4月、ある有名大学の入学式で述べた某女性映画監督の祝辞である。「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」。
 このスピーチの一部をニュースで間接的に聞いたとき、ぼくはなんとなく違和感をおぼたものだが、こうして文書のかたちで読んでみると、その違和感の正体が、いろいろな疑問として明らかになってくる。たとえばまず、この監督は平和主義の立場から侵略戦争に反対しているようだが、それならなぜ、ロシアによるウクライナ侵攻も侵略戦争として「拒否することを選択」しないのか。なぜそれを「悪」と断言しないのか。
 さらにいえば、「『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか」というが、「悪」が存在することに不安はおぼえないのだろうか。「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」というが、どこかの国が自分たちの国を侵攻する可能性についてはどうなのか。もし侵略行為そのものを否定するのなら、他国からの侵略も否定し、それゆえ侵略者と戦うことになるが、その戦いもまた「拒否することを選択」するのだろうか。
 疑問はまだまだつづく。「誤解を恐れずに言うと」、この監督は「だとしたら」と断ってはいるものの、察するに、ウクライナ問題を「正義と正義のぶつかり合い」と見なしているのではないか。彼女のいう「ものの本質」とは、正義とは相対的なものであるということであり、それゆえ「一方的な側からの意見に左右され」るのを恐れるあまり、他方の正義を「悪」として断罪することをためらっているのではないか。
 正義の相対性という問題については、ぼくも過去記事「"Moby-Dick と『闇の力』(12~14)」で自分なりにじっくり考えてみたことがある。

 そしてウクライナ問題にも「正義と正義のぶつかり合い」という側面があることは、ぼくも理論的には認める。旧ソ連、というよりロシア帝国失地回復こそ正義なのだ、とあの大統領は信じているフシがあるからだ。たぶん、そうだろう。が、その「正義」の強制によって現実には血が流れている。この流血の惨を目のあたりにして、「どちらも正しい」、「どっちもどっち」などと、いつまでも第三者的な相対主義の立場を取りつづけていられるかどうか。福田恆存のいうとおり、「さういふ相対主義では、人間は生きられないはずだ。個人の生涯にも、それでは切りぬけられない、ごまかしきれない時期がくるものだ。いや、それが実際に来なくても、それをたえず感じてゐるのが、ほんたうの生きかたでせう」。
 そして国際政治の現実を見れば、いずれ決断のときはやってくる、と覚悟しておいたほうがいい。それはたんに侵略を拒否するだけでなく、拒否するがゆえに相手の正義を「悪」と断じ、それと戦うかどうかという選択かもしれない。イエスにしてもノーにしても、どちらを選ぶか、いまのうちからよく考えておくべきだ。
 とそんな問題を想起させる "Season of Migration to the North" は、「分裂から決断へ、というすこぶる人間的な生きかた」をみごとに描いた傑作である。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

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Tayeb Salih の “Season of Migration to the North”(2)

 これは名作巡礼の一環で取りかかった。Tayeb Salih(1929 – 2009)がスーダンの作家で、本書(1966, 英訳1969)が In 2001 it was selected by a panel of Arab writers and critics as the most important Arab novel of the twentieth century. と知ったのは読了後。掛け値なしに名作である(☆☆☆☆★)。こういう出会いがあるからこそ巡礼はやめられない。

 名作たるゆえんは、一言でいえば、「分裂から決断へ、というすこぶる人間的な生きかた」がみごとに描かれている点にある。
 分裂篇と決断篇とでは主人公が異なるのも特色のひとつだろう。全体の語り手は無名の青年で、留学先のロンドンからスーダンの村に帰ってみると、Mustafa Sa'eed という見知らぬ中年男がいた。この Mustafa は少年時代から天才ぶりを発揮、やはりロンドンに留学したことがあるという。I am South that yearns for the North and the ice.(p.27)とうそぶくイケメンの彼の女性遍歴が「まさに規格外、ケタはずれの愛憎劇」で、とてもおもしろい。
 その顛末を語り手の青年がひとしきり伝えたあと、やがて彼は My Life Story―by Mustafa Sa'eed と題された手記を発見。タイトルのつぎのページにこうしるされていた。To those who see with one eye, speak with one tongue and see things either black or white, either Eastern or Western.(p.125)
 手記の本文そのものは空白なのだが、それはおそらく、青年が聞いた上の話との重複を避けるための設定だろう。ここで see things either black or white とは、つぎに either Eastern or Western とつづく点だけ見れば肌の色にかんするものと解釈できるが、全体の文意としては、偏見や固定観念の比喩と解するべきだろう。そこでぼくは、Mustafa が体験した「男と女の愛と憎しみ、虚と実の争い」も踏まえ、こうレビューにまとめた。「これは『ものごとを黒か白かで見る人びと』にむけて書かれた本である。実際には、ひとは黒と白ないまぜの世界に生きている。早い話が、この世には完全な善人もいなければ完全な悪人もいない。黒白の割合が千差万別なだけだ。こうした矛盾に満ちた存在である人間は、心の内外でつねに分裂と衝突をくりかえしている」。
 村に帰った Mustafa は妻子をのこし他界。その未亡人と語り手の青年との関係も読みごたえがあるが割愛。ともあれ未亡人も自殺し、青年は彼女を救えなかったことに怒りをおぼえ、やけくそになってナイル川に身を投じる。Turning to left and right, I found I was half-way between north and south. I was unable to continue, unable to return. .... In a state between life and death I saw formations of sand grouse heading northwards. .... Suddenly I experienced a violent desire for a cigarette. It wasn't merely a desire; it was a hunger, a thirst. .... I thought that if I died at that moment, I would have died as I was born―without any volition of mine. All my life I had not chosen, had not decided. Now I am making a decision.(pp.138-139)
 それがどんな決断だったかは伏せておこう。とにかく、こんな断片だけ読んでもピンとこないはずだが、このくだりはじつに感動的である。そしてなにより、作者が Mustafa の「分裂と衝突」ではなく、青年の決断で本書を締めくくっている点に胸をうたれる。「分裂から決断へ、というのはすこぶる人間的な生きかた」だからだ。(この項つづく)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。数あるみゆきのアルバムのなかでも傑作の1枚だろう)