ビンゴー・キッドの日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Brit Bennet の “The Vanishing Half”(1)

 胃のほうは薬のおかげでだいぶ痛みが治まってきたのだけど、こんどはまた風邪をひいてしまい、変声期のようなガラガラ声。微熱の一歩手前のような熱もある。コロナでないことを祈るばかりだ。
 ともあれ、上の事情でボチボチ読んでいた Brit Bennet の "The Vanishing Half"(2020)をやっと読了。周知のとおり昨年、ニューヨーク・タイムズ紙の年間ベスト小説のひとつに選ばれた作品で、今年の女性文学賞候補作。今もアメリカでは大ベストセラーで、米アマゾンでもきょう現在、レビュー数56,110で星4つ半の評価となっている。
 ぼくは年金生活者なので、予算の都合上、ふだんはペイパーバック・リーダーに徹している。だから本書も今まで来月18日の発売を待っていたのだが、ここへきて P Prize.com の予想によると、今年のピューリツァー賞の最有力候補に挙げられている。同賞の発表は来月4日。その結果が出る前になんとか本書を読んでおきたい。というわけで、例外的にハードカバーを買い求めるはめになってしまった。はて、どんなレビューになりますやら。 

 [☆☆☆★★★] 人種差別はアメリカ文学における永遠のテーマのひとつだが、その長い歴史のなかでも本書はすこぶるユニークな位置を占めるのではないか。黒人の被差別意識を白人コンプレックスというかたちで、ここまで本格的に描いた作品も珍しい。しかもそれがコンプレックスであるがゆえに秘密の真実として扱われ、その秘匿性にふさわしい時代背景と舞台、人物が設定され、豊穣な物語がつむぎだされている。みごとな作劇術である。なぜ彼女は姿を消したのか。なぜ彼女は混血であることを隠したのか。21世紀の現代ならありえなかったような話が20世紀後半ということでごく自然になり、なおかつ現代に通用する、現代でも人種差別について考えるヒントを示している。たとえば白人コンプレックスはいまだに公然の秘密なのかもしれない。なぜそこは地図にも載っていないルイジアナ州の田舎町なのか。秘匿性から生じる不安定、不確実なアイデンティティーの問題とあながち無関係とも言い切れない。なぜ彼女たちは双子だったのか。「双子とは、異なると同時に同じ存在」である、と姉はいう。双子にかぎらず、人間はたえず微妙に、時には劇的に変化しながら、同時にまた不変の要素も兼ねそなえている。こうした矛盾に満ちた存在の代表格が「消えた片方」なのである。コンプレックスを軸にすえることで、差別問題が「不安定、不確実なアイデンティティーの問題」へと発展するところに本書のユニークさがある。これに付随して、姉の恋人が失踪人探しをなりわいとし、彼女の娘の恋人がトランスジェンダーで、妹のほうの娘が「自分は自分」と虚勢を張りながら「自分探しの旅」に出かけるなど、準主役にいたるまで、なんらかのかたちで人間存在の問題に関与することで小説としてのふくらみが増している。なぜ彼女たちは、いや人間は自分というものにこだわるのか。その自己とは認識すべき実像なのか、追求すべき理想像なのか。本書を読んだだけでは答えが見つからない疑問点はいくつか残るものの、これはこれで構成上じゅうぶんに計算された秀作である。

Richard Russo の “Empire Falls”(1)

 この二週間ほどずっと胃が痛く、休み休みの読書になってしまった。きょう診察してもらったところ、どうやら逆流性食道炎の再発らしい。薬が効きはじめるまで我慢するしかなさそうだ。なにはともあれ、きのう Richard Russo の "Empire Falls"(2001)をやっと読了。2002年のピューリツァー賞受賞作である。さっそくレビューを書いておこう。 

Empire Falls

Empire Falls

  • 作者:Russo, Richard
  • 発売日: 2002/05/09
  • メディア: ペーパーバック
 

[☆☆☆★★] いつかは大きな山場が訪れるものと期待しながら読んでいると、最後の最後になってショッキングな大事件。それから一気に結末へとなだれ込み、エピローグで意外な真実が暴露される。舞台はメイン州エンパイア・フォールズ。滝に由来するその名のとおり、工場閉鎖でさびれた町である。繁栄の時代、資産家の息子チャールズの非業の死を予感させるプロローグの数十年後、本編ではレストランの店主マイルズが妻と離婚寸前。妻の浮気相手も店の常連だが、温厚なマイルズは冷静に接している。そんなマイルズをめぐる関係者一同のやりとりがすこぶる丹念に描かれ、夫婦や隣人をはじめ、親子兄弟、友人、中年の男女、高校生たちのさまざまな愛憎劇が繰りひろげられる。日常茶飯事のあいまに小さな山場があり、それぞれユーモアと緊張感をないまぜにしたローカル・ピース集のおもむきだ。そこへマイルズの少年時代の回想がまじり、優しく美しかった母親の悲しい人生が浮かびあがる。緻密な性格描写により各人ともステロタイプとまではいえないが、温厚篤実な夫と軽佻浮薄な妻に代表される類型的な対立関係が目だち、その対立も価値観ではなく愛憎をめぐるもの。激しい情熱と深い懊悩が偉大な高みへと昇華されることもない。上の大事件にしても感情の爆発にすぎない。とはいえ、それが主筋とは無関係なのに主役脇役たちの人生を大きく左右するところは、まさに運命のいたずら。プロローグのチャールズおよびその妻と、本編のマイルズおよびその母との複雑な絡みあいのように、小さな町ならではの濃密な人間関係もまた運命。ふだんさざ波が立つだけだった川の流れが突然、定めにしたがい轟音とともに滝底へと落ちていく。タイトルにふさわしい、いかにも現代人らしい人生の軌跡を描いた物語である。

Souvankham Thammavongsa の “How to Pronounce Knife”(2)

 これは既報のとおり、昨年のギラー賞(Scotiabank Giller Prize)の受賞作、および全米批評家協会賞の最終候補作。ギラー賞はカナダで最も権威ある文学賞だけど、そう聞いてもピンとこない日本人読者がきっと多いはずだ。全米批評家協会賞にしても、〈アメリカ三大文学賞〉のなかではいちばん、なじみが薄いかもしれない。
 ちなみに、このふたつの賞に重複して名前の挙がった作品はたぶん初めてだろう(チェックミス可能性あり)。Thammavongsa は、これも既報どおりトロント在住のラオス難民・移民で、そういう出自の作家がメジャー・デビューを果たしたのは間違いなく初めてだと思う。
 巻頭の表題作は、幼い娘に knife の発音を訊かれたラオス難民の父親が、Kah-nnn-eye-fff. It's kahneyff. と答えるエピソード(p.7)を軸にした話。滋味あふれるユーモアに心が温まる。同系列の第6話 'Chick-A-Chiee!' もいい。ハロウィーンTrick or treat. の言い間違いが、なんともかわいく聞こえる。
 第8話 'Edge of the World' で、I never thought to ask my mother why she slept in my room most nights. I was just glad not to be alone in the dark. というくだり(p.100)を目にしたときは、思わず胸にこみ上げるものがあった。「意味や脈絡があったりなかったりする幼時の記憶」には、じつは深い意味があったことがあとで分かることもある。ぼくも小学生のころ、街を歩いていたら叔母さんとぱったり出くわし、といっても当時たしか20代の若い叔母さんなのだが、あ、叔母さんだ、と気づいたときにはもうすれ違っていた。その瞬間を思い出して詠んだ拙句が、「夕燒けに光る涙のひとしずく」。
 涙の意味を知ったのは、ぼくが成人してからのことだ。
 ほかにも秀作佳篇はいくつかあったが、いちばんのお気に入りはやはり、レビューでも紹介した第4話 'Randy Travis'。英語が苦手の母親に代わって幼い娘が、カントリー・ミュージックの歌手 Randy Travis 宛てにファンレターを書くエピソードを皮切りに、母の死後、父親がカラオケで Randy の歌を熱唱する結末まで、移民と万人共通の家族の哀歓がユーモアをまじえてみごとに凝縮されている。冒頭でふれた事情で邦訳が出る確率はどうも低そうだけど、この 'Randy Travis' だけでもどなたか訳してほしいものだ。

(下は、唯一持っている Randy Travis のCD。 'I told you so' が泣ける) 

Platinum Collection

Platinum Collection

  • アーティスト:Travis, Randy
  • 発売日: 2006/07/25
  • メディア: CD
 

  

Jeffrey Eugenides の “Middlesex”(2)

 これも長年の宿題だった。"The Amazing Adventures ...." や "The Corrections" ほどではないにしろやはり大作で、昔のピューリツァー賞受賞作(2003)。ぼくにとっていちばん積ん読になりやすいパターンだ。現代文学の場合、リアルタイムで読まなかった分厚くて有名な本ほど敬遠したくなる。不精なあまのじゃく、というわけだ。
 今回ようやく重い腰を上げ、いざレビューをでっち上げるとき、主人公 Calliope の日本語表記を知りたかったので検索したところ、邦訳(2004)はまだ文庫化されていないようだ。世評が高いわりに、あまり売れなかったのかな。
 もし売れ行きが実際、出版社の思惑どおりでなかったのだとすれば、むべなるかな。ピューリツァー賞受賞作だからといって、べつに大騒ぎするほどの出来ではない、というのが率直な感想だ。三冊つづけて大作を読んでみたが、これがいちばんピンとこなかった。Eugenides のものでは、2011年の全米批評家協会賞最終候補作、"The Marriage Plot" のほうがはるかに面白い。 

 期待が大きすぎたのかもしれない。まずタイトルがいい。Middlesex がデトロイト近郊の Middlesex Boulevard を指していることは途中でわかる(p.258)。実在の街かどうかは未確認だが、もしかして「中性」の意かも、とぼくのような一般読者なら当然期待するはずだ。作者もそう計算したのではないか。
 書き出しがかなり魅力的であることも、その期待をふくらませる大きな要因だ。I was born twice: first, as a baby girl, .... and then again, as a teenage boy, ....(p.3)これとタイトルを合わせれば、おや、本書はジェンダー、それもトランスジェンダーがテーマのSFか、とでも思いたくなるのがふつうだろう。「そこから当然、ふたつの興味が生まれる。まず、どうしてそんな奇跡が起きたのか。つぎに、その奇跡にはどんな意味があるのか」。
 そんな興味で読み進むと、意外にもジェンダーの問題は二の次であり、むしろ歴史小説や恋愛小説、青春小説、家庭小説など、いろいろな要素を盛り込んだファミリー・サーガとなっている。たしかに面白い。しかしファミリー・サーガというだけなら、もっともっと面白い本がほかにあったように思う(不精者につき、過去記事は未検索)。これはやはり、二の次ながらジェンダーがらみという点が異色であり、売りなのではという気がする。
 そのセールスポイントをめぐっても、「奇跡の起きたプロセスについてはよく書けているが、それを知ったからといって読者の人生が豊かになるわけではない」。むろん豊かになったと感じるひともいるだろうが、.... my family found that, contrary to popular opinion, gender was not all that important. My change from girl to boy was far less dramatic than the distance anybody travels from infancy to adulthood. In most ways I remained the person I'd always been.(p.520)こんな記述を読むと、ごく平凡な結論ですな。それどころか、昨今かまびすしいトランスジェンダー擁護論からすれば、gender is not all that important とはけしからん、ということになり、今だったらピューリツァー賞も穫れないのではないかしらん。
 In most ways I remained the person I'd always been とはアイデンティティーの問題である。ぼくはこの点を踏まえ、アップしたレビューの初稿「(ジェンダーは)それほど掘り下げようがないことを、図らずも露呈」から、「ジェンダーの確認がアイデンティティーの確認にいたるにしても、それ以上に掘り下げようがないことを」と訂正した。しかしその後、ジェンダーの背景には伝統や文化の問題があることを思い出し、現在のような文言に再度訂正。とはいえ、拙文はいくら直しても名文にはなりませんな。

(下のCDは「英雄」を聴きたくて最近買ったものだが、モーツァルトの40番がいちばんよかった) 

 

Souvankham Thammavongsa の “How to Pronounce Knife”(1)

 ゆうべ、2020年のギラー賞受賞作、Souvankham Thammavongsa の "How to Pronounce Knife" を読了。これは先日受賞作が発表された2020年全米批評家協会賞の最終候補作でもある。カナダの新人作家 Souvankham Thammavongsa はタイのラオス難民キャンプで生まれ、その後トロントに移住。本書は彼女の処女短編集である。さっそくレビューを書いておこう。 

How to Pronounce Knife: Stories (English Edition)
 

 [☆☆☆★★] 意味や脈絡があったりなかったりする幼時の記憶。なぜあの思い出はこうも今の自分の胸を締めつけるのか。誰にでもありそうな体験だが、それが本短編集では多くの場合、ラオス難民の女性が両親または片親といっしょに暮らした幼い少女時代の回想として綴られる。新天地で英語の発音に苦しんだであろう父親(表題作)。カントリー・ミュージック歌手ランディ・トラヴィスの大ファンになった亡き母と、妻を偲んでカラオケで絶唱する父。なぜかいつも娘の部屋で夜を過ごし、やがて家を出ていった母。その昔仲よく遊びまわったのに音信不通となり、後年街で見かけても声をかけそびれた友人。異文化への適応困難や貧困、重労働、身分格差、疎外、交錯する希望と失望、別離の悲しみなど、移民ならではの苦難の物語がユーモアをまじえながら紡ぎだされ、そこに親子や夫婦の断絶、恋愛、友情といった万人共通の話題も織りまぜられる。こうしたもろもろの要素をうまくまとめた絶品が上の第4話「ランディ・トラヴィス」。言葉の壁に笑わされ、難民らしからぬというべきか、難民らしいというべきか母親の狂乱ぶりに呆気にとられ、やがて漂う哀感と、底流にある愛情の深さに胸をえぐられる。意味もわからず一見脈絡もなく、しかしとにかく目に焼きついた子どものころの心象風景。移民を超えた移民の物語集である。

Jeffrey Eugenides の “Middlesex”(1)

 2003年のピューリツァー賞受賞作、Jeffrey Eugenides の "Middlesex"(2002)を読了。さっそくレビューを書いておこう。 

Middlesex: A Novel (English Edition)

Middlesex: A Novel (English Edition)

 

 [☆☆☆★★]「私は二度生まれた。最初は女の子として。それから十代の少年として」という書き出しはかなり魅力的。そこから当然、ふたつの興味が生まれる。まず、どうしてそんな奇跡が起きたのか。つぎに、その奇跡にはどんな意味があるのか。主人公カリオペの祖父母のなれそめから始まり、父母、そしてカリオペ自身の誕生にいたる前半は歴史小説。1922年、大火の発生したエーゲ海港湾都市スミルナから脱出して渡米、禁酒法大恐慌、第二次大戦と朝鮮戦争の時代を生きぬいたギリシア系移民の苦難の物語が、2001年の現代に生きるカリオペの視点から描かれる。この工夫がうまい。上の奇跡にまつわる情報を小出しにすることで興味をつなぎ、恋愛とメロドラマを基調にした山あり谷ありの移民物語が通俗に堕するのを防いでいる。通俗といえば、女児から少年への変身劇がなければ後半は、どこかで読んだことのあるような青春恋愛小説、そして家庭小説。1967年のデトロイト暴動を通じて人種差別の問題を採りあげるなど米現代史とのリンクを心がけてはいるものの、大きな歴史の流れに巻き込まれる移民の姿は影をひそめ、スキャンダラスで奇想天外な事件こそ起きるものの、それも本質的には書中の言葉を借りれば「アメリカ人の生活でよくある悲劇」にすぎない。それゆえ本書の非凡たるゆえんは、上の奇跡の問題をいかに処理するかにかかっている。このとき奇跡の起きたプロセスについてはよく書けているが、それを知ったからといって読者の人生が豊かになるわけではないのは致命的な欠陥。タイトルからジェンダーの問題を深く掘り下げた作品を期待したが、カリオペの家族にとって「ジェンダーはそれほど重要なものではない」。実際、ジェンダーの確認がアイデンティティーの確認にとどまり、伝統や文化の問題にまで発展しないところに本書の突っ込みの甘さがある。が、物語性は抜群なので★をひとつオマケしておこう。

Jonathan Franzen の “The Corrections”(2)

 ついに風邪をひいてしまった! たぶんコロナではなく(そう思いたい)、どうも孫からもらったものらしい。孫のほうはもうケロっとしているのだけど、ぼくはまだ頭が痛い。血圧のせいかもしれない。
 おかげで、"Middlesex" は足踏み状態。しかも振り返ってみると、中盤あたりから、だんだんつまらなくなってきた。I was born twice: as a baby girl, .... and then again, as a teenage boy, .... という魅力的な書き出しの then again 以下のほうに話が進みつつあるのだが、べつにどっちでもいいんだけど、という気がしなくもない。それは偏見だと自戒しつつ、眠い。
 表題作の落ち穂拾いを簡単に済ませておこう。これも前回の "The Amazing Adventures of Kavalier & Clay" と同様、ひと目見たとたん積ん読になってしまった大作。辞書なみにデカい。
 これは最初、パーキンソン病にかかった老人とその妻、子どもたちをめぐる family comedy のような要素があり、そしてその要素はいちおう最後まで維持されるのだけど、途中、たしか conventional family comedy という文言が出てきた。メモを取るのをうっかり怠ってしまい、正確な引用はできないのだが、conventional という形容詞だけははっきり憶えている。これを目にしたとき、ぼくはとっさに思った。ハハァ、この本はいまのところ conventional family comedy のようだけど、ほんとうは違うのだな。とすれば、どこがどう違うのだろう。
 それとタイトルの corrections。何をどう correct する話なのか。
 と、そんな観点から読み進み、レビューをでっち上げた次第である。参考にした箇所のひとつがここだ。Everyone's trying to correct their thoughts and improve their feelings and work on their relationships and parental skills instead of just getting married and raising children like they used to, is What Ted says. .... he and I don't really agree at all anymore on what's important in life.(p.356)
 こう語るのは Sylvia という女性で Ted の妻。ふたりとも端役なので中心人物との関係は省略するが、とにかくこのくだりに本書で起こるドタバタ悲喜劇の原因が示されているように思う。大きくいえば人生観や価値観、そこまで話を広げなくとも、ちょっとした考え方の違いによって対立が生まれ、それぞれ自分の考えを改めようとしたりしなかったり。その焦点が些細な問題であれば喜劇となり、厄介な問題であれば悲劇となる。こうしたプロセスが「デフォルメに近いかたちでコミカルに描かれる」のが本書ではなかろうか。
 そういえば、わが家でも似たような事件が、と思わずふきだしてしまったエピソードもいくつかある。上の老夫妻の娘が久しぶりに帰省した際、家のなかのガラクタ類をせっせと片づけたところ、あとで、え、あれも捨ててしまったの、と夫人が慨嘆する。ありふれた話だが、Franzen の手にかかると、けっこうおかしい。
 いかん、たいした分量を書いたわけでもないのに、もう目の前がぼうっとしてきた。おしまい。

(下は、最近届いたCD。美しいチェンバロだ) 

Harpsichord Concertos

Harpsichord Concertos

  • 発売日: 2008/07/07
  • メディア: CD