ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(2)

 十九世紀英文学の古典探訪第二回。これでやっと『高慢と偏見』も "Pride and Prejudice" となった。
 ただし、中学生のころだったか読んだ邦訳版では、たしか『自負と偏見』だったような気がする。未見のジョー・ライト監督作品は『プライドと偏見』(2005)

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 昔の記憶は "Jane Eyre" よりもさらになく、なんとなく、けっこうおもしろかった、という程度。このほど英語で読んでみて、中学生じゃわかるわけないな、と思える内容だったので、「なんとなく」うんぬんも怪しい。おとなの文学ですね、これは。
 "Jane Eyre" と同じく超有名な古典だが、うちの家人は知らなかった。しかし文学ファンなら読んでいて当たり前。未読のかたでもタイトルくらい耳にしたことがあるのでは。いまさら感想を報告するまでもないだろうと思ったけど、レビューもどき以外に、二、三書き留めておきたいことがある。
 しかしこのところ、表題作もそうだったが、小林信彦のいうように「本は寝ころんで」。血圧が高いせいか頭が重く、デスクにむかうのも、ましてやパソコンを打つのもしんどい。さっさとこの駄文を切りあげるべく、きょうは英語について気がついた点だけ挙げておこう。
 いくつかあるが、まずカンマの位置。Jane Austen の書き癖なのか、当時は正用法だったのか、このカンマ、現代英語ではふつうこんなところには打たないよね、と思える「変則カンマ」があり、あ、またこのカンマか、と馴れるまで当初は苦労した。実例は、と書きかけたが、ここでもうちょっと頭が痛くなってきたのでカット。
 第二に、代名詞の指示内容。通常、he, she は直前の固有名詞を指すものだが、その指しているはずの人物が直前ではなく、かなり前に登場し、そのあいだにべつの人物が出てくる場合がある。文脈的にはありなんだろうな、と思ったけど、これも馴れるまで違和感があった。
 その最たる例はここだ。To no creature had it been revealed, where secresy was possible, except to Elizabeth; and from all Bingley's connexions her brother was particularly anxious to conceal it, from that very wish which Elizabeth had long ago attributed to him, of their becoming hereafter her own.(Penguin Classics, p.257)
 どうやらこれも有名なくだりらしく、"Jane Eyre" を読んでいるときもお世話になった WordReference.com Language Forums を訪ねたところ、こんなやりとりがあった。
(質問者 jinti) Hey ... I've been studying this quotation from Jane Austen's book for nearly 30 minutes only in vain to find what the
1) which Elizabeth had long ago attributed to him is referring to,and
2) underlined "their becoming" implies. Particuarly what "their" is indicating, or whom.
This question may be answerable only to those who have read the book several times or who have adequate knowledge over it./ This dialogue's from Chapter 45./ I'd really appreciate, if you would put your answer forward and answer this.
(回答者 shiness) Here's an annotated version of the paragraph from http://www.pemberley.com/janeinfo/pptopics.html:
This paragraph in chapter 45, during the visit to Pemberley, after Miss Bingley's snide remark about the militia being removed from Meryton, does in fact mean that Darcy had hoped that his sister would marry Bingley; here's a version of the paragraph with annotations supplied by Arnessa:
"Had Miss Bingley known what pain she was then giving her beloved friend [Miss Darcy], she [Miss Bingley] undoubtedly would have refrained from the hint; but she had merely intended to discompose Elizabeth, by bringing forward the idea of a man [Wickham] to whom she [Miss Bingley] believed her [Elizabeth] partial, to make her betray a sensibility which might injure her in Darcy's opinion, and perhaps to remind the latter [Darcy] of all the follies and absurdities by which some part of her [Elizabeth's] family were connected with that corps. Not a syllable had ever reached her [Miss Bingley] of Miss Darcy's meditated elopement. To no creature had it been revealed, where secresy was possible, except to Elizabeth; and from all Bingley's connections, her brother [Darcy] was particularly anxious to conceal it, from that very wish which Elizabeth had long ago attributed to him [Darcy], of their [the Bingleys] becoming hereafter her [Miss Darcy's] own [connections]. He [Darcy] had certainly formed such a plan, and without meaning that it should affect his [Darcy's] endeavour to separate him [Bingley] from Miss [Jane] Bennet, it is probable that it might add something to his [Darcy's] lively concern for the welfare of his friend. [Bingley]."
 けっきょく、文脈や人物関係がよくわかっていないとむずかしい、ということですね。

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(5)

 映画でも小説でも対決シーンがあるとガ然盛りあがるものだ。西部劇がいい例で、ヒーローが勝つに決まっているとわかっていても思わず目が釘づけになる。

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 表題作にもいくつか対決シーンがあり、もちろん勝敗がからんでいるわけではないが、そのピリピリした緊張感たるや超ド級。'... You told Mr Brocklehurst I had a bad character, a deceitful disposition; and I'll let everybody at Lowood know what you are and what you have done.'/ 'Jane, you don't understand these things; children must be corrected for their faults.'/ 'Deceit is not my fault!' I cried out in a savage, high voice./ 'But you are passionate, Jane, that you must allow; and now return to the nursery―there's a dear―and lie down a little.'/ 'I am not your dear; I cannot lie down: send me school soon, Mrs Reed, for I hate to live here.'(p.46)
 開幕から、ああそうだったっけ、と昔の記憶をたどりながら読んでいたのだけど、この Jane と Mrs Reed の火花が散るようなバトルで意識は現在進行形。Jane をいじめる Mrs Reed の仕打ちがあまりにひどく、ここで猛然といい返すJane に、やれいけ、それいけ、と声をかけたくなるほど惹きこまれた。
 ついで、Mrs Reed の意を汲む Mr Brocklehurst に教師や生徒たちの面前で、'Who would think that the Evil One had already found a servant and agent in her? Yet such, I grieve to say, is the case.' / ... '... this girl is―a liar!'(p.78)と罵られ、理不尽な懲罰をうける場面もすごかった。Jane は口ではなにも反論しないので対決とはいえないが、むろん腹のなかは煮えくりかえっている。「彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う」。
 でもまあ、このふたつのバトルでは西部劇のように善玉悪玉がはっきりしていて、よもや Mrs Reed  や Mr Brocklehurst に肩いれする読者がいるとは思えない。
 第三のバトルは Jane vs Rochester だが、これはメロドラマとしての本書の山であり、有名な話なので割愛。
 それよりぼくが圧巻だと思ったのは牧師セント・ジョンとの対決である。このほど英語で読んでみて記憶からすっかり抜けおちていたことを発見。きっと高校生のときはピンとこなかったはずだ。年をとり妙なところに感心するようなったのかもしれないけれど、とにかくここは本書でいちばん「知的昂奮を味わえる箇所」だろう。
 Mrs Reed や Mr Brocklehurst とちがって、St John の主張には彼なりに相当な理論的根拠があり、これをくつがえすのは至難のわざに思える。'Jane, come with me to India: come as my help-meet and fellow-labourer.'/ ... 'Oh, St John!' I cried, 'have some mercy!'/ I appealed to one who, in the discharge of what he believed his duty, knew neither mercy or remorse. He continued:―/ 'God and nature intended you for a missionary's wife. It is not personal, but mental endowments they have given you: you are formed for labour, not for love. A missionary's wife you must―shall be. You shall be mine: I claim you―not for my pleasure, but for my Sovereign's service.' / 'I am not fit for it: I have no vocation.' I said(p.448)
 おまえを愛しちゃいないけど信仰のためにおれについてこい、というのはかなりのムチャぶりだけど、それを大まじめに説きつけようとする情熱は狂信的であり、狂信ほど手ごわいものはない。
 そんな St John を Jane は冷静に観察している。To me, he was in reality become no longer flesh, but marble; his eye was a cold, bright, blue gem ...(p.457)そして彼の妹 Diana にこう述べる。'He is a good and a great man: but he forgets, pitilessly, the feelings and claims of little people, in pursuing his own large views.'(p.463)
 このくだりを読んでいて、ぼくはベルジャーエフの『人間の運命』を思い出した。「血のかよわない、抽象的で非人格的な愛や個々の人間の魂を認めようとしない精神的な愛は、実は愛ではない。それは残酷なまでに狂信的で非人間的な愛である」。さような「非人格的な愛」とは「ガラスの愛」である。(野口啓祐訳)
 Jane が St John の説得に応じなかったのはいうまでないが、幕切れで彼女はこうしるしている。The last letter I received from him drew from my eyes human tears, and yet filled my heart with Divine joy ... No fear of death will darken St John's last hour: his mind will be unclouded; his heart will be undaunted; his hope will be sure; his faith steadfast.(p.502)
 つまり Jane は St John を全否定しているわけではない。そこからぼくはこんな結論を導いたのだけど、たぶん素人文学ファンの早トチリでしょうね。「ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう『ヴィクトリア朝的妥協』とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか」。(了) 

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(1)

 先週またもや風邪をひいたせいか、いっとき落ちついていた血圧がふたたび急上昇。文字どおり頭をかかえながら "Pride and Prejudice"(1813)を読んでいた。
 それがおととい、あと数ページまで漕ぎつけたところで挫折。右耳が飛行機の離発着時のように詰まり、夜半には激痛が走り、少し出血もあった。
 この季節、風邪がなかなか治らないまま脳梗塞を起こした亡父のことが思い出され、いよいよ年貢の納めどきかと案じたが、きのう診てもらったところ、さいわいコロナでもインフルでもなく、ふつうの風邪とのこと。安堵し、帰りのバスのなかで本書を読みおえた。はて、どんなレビューもどきになりますやら。

Pride and Prejudice (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★★] モームが「世界の十大小説」に挙げたことでも知られる名作だが、正確には、「小さな大小説」である。まず小たるゆえんは、ここに描かれているのが終始一貫、家庭というコップのなかの嵐だからだ。しかもその嵐は結婚狂騒曲。たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる。しかしその事実を差し引いても、やはりコップのなかの嵐には相違ない。それがなぜ「大小説」と呼べるのか。プライドと偏見という人間の宿痾をもののみごとにドラマ化した作品だからである。聡明で思慮ぶかいエリザベスでさえいっとき患ったように、この業病とまったく無縁のひとはだれもいない。それどころか、現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実を見れば、嵐はとうにコップの外でも吹き荒れている。一方、ちょうどシェイクスピア悲劇が性格悲劇であったように、本書は一面、性格喜劇である。エリザベスの母や妹たち、その取り巻きがしめす軽佻浮薄、軽挙妄動ぶりは、およそ人間が人間であるがゆえに逃れえぬ欠点から生じた可笑しさそのものであり、当時の読者はおそらく、身につまされながら苦笑爆笑したのではないか。エリザベスに一回めのプロポーズをしたときのダーシー、および彼の叔母キャサリン夫人のプライドと偏見は、これもおそらく当時の上流社会の一般常識を反映したものであり、彼らはいわば守旧派として行動している。それに抗して起ちあがったのがエリザベスというわけで、キャサリン夫人との対決に快哉を叫び、ダーシーとの和解に涙した読者もさぞ多かったことだろう。エリザベスはその合理主義、独立精神、そして純粋な愛情という点で、『ジェイン・エア』のジェインの先駆けともいえる存在である。ある場合には愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合し興味ぶかい。このように本書はいろいろな意味で小さな大小説であり、小説の本質の一端を体現している。まさに「小説神髄」である。

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(4)

 チェスタトンの著作のうち、メモを取りながら文字どおり熟読玩味したのは『正統とは何か』だけだ。

正統とは何か

 学生時代、ある最後の授業のおわりに亡き恩師がこういった。「もし自殺したくなったら、死ぬ前に『正統とは何か』と『善悪の彼岸』を読め。それでも死にたかったら俺のところへ来い」
 原著 "Authodoxy"(1908)も持っているけれど、なにしろ訳者は福田恆存と安西徹雄のご両所だ(アップした本ではなく、ぼくの読んだチェスタトン著作集版では共訳になっている)。邦訳でじゅうぶんだろう。
 一方、『ヴィクトリア朝の英文学』をはじめ、あとの著作はすべて斜め読みか積ん読。これがいけなかった。若いころもっと勉強しておくべきだった、とこのほど痛感したが後悔先に立たず。年寄りにありがちな嘆きですな。
 シャーロット・ブロンテを論じたページだけパラパラめくってみても、前回引用した箇所以外にもいくつか気になるところがある。やはり古典を読む場合は、こんど調べたヴィクトリア朝のことのように、一定の基礎知識がぜったい必要なのではないか。アホ、おまえ、そんな常識さえ知らなかったのか、と上の恩師の呆れ顔が目に浮かんでくるようだ。
 いや知らなかったのではなく、ついよろず調べるのが億劫になりまして、はいぃ。
 ともあれ "Jane Eyre" は最適の古典入門書であり、あまり深く突っこまなくても、とりあえずメロドラマとしてそれなりに楽しめるし感動もできる。それが世界中の人びとから愛されている理由のひとつなのだろう。あ、またまた陳腐な指摘ですね。
 ところが意外にも深掘りできる作品である、というのが英語で読んでみてはじめて発見した「新事実」だ。たとえば終幕におけるジェインと牧師セント・ジョンの対決なんて、高校生のときは全然衝撃を受けなかった。Rochester はさすがに憶えていたけれど、St John? そんなやつ、いたっけ。
 年をとると妙なところに感心するのかもしれないが、ふたりの対決は本書でいちばん「知的昂奮を味わえる箇所」だと思う。しかし映像化しにくい場面でもあり、未確認だがフランコ・ゼッフィレリ監督作品『ジェイン・エア』ではカットされているかもしれない。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(3)

 これはいまさらいうまでもなく、文学ファンならずともタイトルくらいは耳にしたことがありそうな名作だ。そう断言できるのは、文学オンチの家人でさえ知っていたからだ。
 そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう。本書にかぎらず、古典をあと回しにしてきた理由のひとつだ。あ、これもどこかでボヤきましたね。
 ともあれ、どうせなら、ウロおぼえの邦訳や映画のことはなるべく忘れ、ひたすら初見のつもりで取り組み、初見の読者だったらどう読むか、という観点から迫ってみよう。それなら少なくとも自分にとっては新鮮な駄文が綴れるのではないか。
 というわけで自己マンにひたるべく、着手前はもちろんレビューをでっち上げる際も、(数えるほどしか所持していない)文学評論集や、(ネットで読める)研究書、アマゾン掲載のレビューのたぐいは、ひとつの例外を除いて、いっさい目にしないことにした。Wiki さえ調べなかった。
 その例外とは、G.K.チェスタトンの『ヴィクトリア朝の英文学』である。

G.K.チェスタトン著作集 8 ヴィクトリア朝の英文学

Wikiさえ」と書いたが、じつは読み進むにつれ、ヴィクトリア朝についてだけはどうしても調べる必要を感じ、読了後に検索。いくらか参考にさせてもらった。
 そのときふとチェスタトンの名著を思い出した。たしかシャーロット・ブロンテも採りあげていたはずだよな、くらいの記憶しかなかったが、なにしろチェスタトンのことだ。きっとなにか鋭い指摘があるにちがいない。
 といっても、レビューを書く前に目にとまったのは、つぎのくだりだけだった。「つい昨日まで山賊であった男たちが、今日はたちまち鉱夫になる。古い世界の最後を代表する連中が、同時に新しい時代の粗雑な先端を支えねばならないのである。このような形でシャーロット・ブロンテは、ヴィクトリア朝的妥協のきわめて特殊な相を体現することとなった」。(安西徹雄訳『チェスタトン著作集8』、p.103)
 この「ヴィクトリア朝的妥協」ということばは、べつの意味で借用することにしたけれど、ふうむ、なんだこんなものか、とタカをくくり、そこで読みやめた。
 しかしさすがチェスタトン、タダものではありませんでした。ここまでこの記事を書いてきて、せっかくの機会だからと先を読んでみると、ゲッ、なんとこんな指摘がなされているではないか。「いずれにしても、ヴィクトリア朝文学に直接大きな影響を与えたのは、エミリーよりはシャーロットだった。その強力な貢献をただ一言で述べようとするならば、手取早く次のように言うことができるのではあるまいか。つまり彼女は、もっとも卑近なリアリズムを通じてもっとも高揚したロマンスに到達したということである」。(p.104)
 ああ、やっぱり「屋上屋を架す」でしたな! 表現こそ異なるけれど、骨子としてはぼくも似たようなことを、しかも格調低い拙文で綴ってしまった。あれはいったいなんだったのか。
 チェスタトンはまたこうも述べている。「要するにシャーロット・ブロンテは、異常なものの戦慄を平凡なものの退屈さのうちに隠す秘訣を発見したのだ。そして実際、彼女の作品の中でやはり『ジェイン・エア』が最高の作品であり、(中略)その理由も、この作品が、単に血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品であるためばかりではなくて、同時に血湧き肉躍る探偵小説であり、しかも探偵小説として最高級の作品だというところにある」。(p.105)
 ははあ、『ジェイン・エア』がシャーロットの「血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品」だったとはちっとも知りませんでした。知らぬが仏ってやつですな。けどぼくはタテマエとして、作品をして語らしめよ、という立場なので、ま、いいか。(ホンネは、作家の来歴を調べるのが面倒くさい)。
 それから、「最高級の探偵小説」というのはちとホメすぎなのでは。ただそれは現代的な目でながめた場合であって、19世紀の作品としてはやはり「最高級」なのかもしれない。なにしろ、ブラウン神父の生みの親がそういってるんですからね。
 意外だったのは、名著中の名著『正統とは何か』の著者にしては、Jane と St John の対決への言及がまったくないこと。あそこ、素人目には圧巻のように思えたんですけどね。それとも、カトリック信者の立場からすれば、べつにどうってことのない場面だったのかな。
 あと、ぼくのいう意味での「ヴィクトリア朝的妥協」も出てこなかった。ううむ、早トチリだったのか。(こんな泡沫ブログを目にするはずはないけど)英文科の先生がたの苦笑が聞こえてきそうです。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(2)

 ああ、やっと『ジェイン・エア』が "Jane Eyre" になった!
 高1のときだったか邦訳で読んだきりの『ジェイン・エア』。これもいつだったか一度観たきりのフランコ・ゼッフィレリ監督作品『ジェイン・エア』(1996)。

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 なかなかゴキゲンな映画だったけど、いい気分になったということしか憶えていない。そもそも原作のほうも、とてもおもしろかった、大筋はなんとく、という程度。
 それが原書に取り組む前の「予備知識」だった。
 そんな作品をどうして読みたくなったかというと、「現代から古典まで」と本ブログの紹介で謳っておきながら看板に偽りあり。いままで採りあげた19世紀英米文学の名作といえば、"Moby-Dick"(1851)だけ。それも英語で読みかえすのはあきらめ(原書をお読みのかたならご理解いただけるでしょう)、テクストは邦訳だった。

 数年前に退職してから、このニセ看板がずっと気になっていた。
 これをなんとかしなければと思いつつ、ただ、なにしろディケンズをはじめ大作が多い。ヘンリー・ジェイムズをはじめ、難解で知られる作品も多い。そこでついつい、あと回しになってきた。
 それでももう古希もすぎ、このへんで手をつけておかないと、ますます作業が困難になるのは目に見えている。じっさい、いまも血圧が高い。
 そこで思いついたのが『ジェイン・エア』。お粗末な予備知識ながら、あれならなんとかイケるのでは、とひらめいた。英語の難易度はさておき、中身といい長さといい手ごろかもしれん。
 正解でしたね。たしかに古典入門篇って感じだったし、雑感(2)で報告したとおり、イマイチ疑問をおぼえる箇所はいくつかあったけれど、総じて標準的な英語だった(ただしもちろん古い英語)。もっと早く取り組むべきでした。いや、それをいうなら、大昔、そもそも英語が好きになったときテクストに選ぶべきでした。あ、これはどこかでボヤきましたな。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(1)

 きのう、"Jane Eyre"(1847)を読了。途中、風邪をひいたせいか血圧が上がり、文字どおり頭をかかえながらの task となった。
 とはいえ、Slow and steady wins the race. いつにもまして、それぞれのシークェンスが全体に占める意味や役割、ひいては作者の意図などについてもじっくり考えることができた。それが正鵠を射ているかどうはさておき、その task は非常に貴重な体験であり、たぶん現代文学においても役に立つのでは、と期待している。
 ともあれ、本書は周知のとおり古典中の古典。はて、どれほど陳腐なレビューになりますやら。

Jane Eyre (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★] 開巻、結末はすぐにわかる。不幸な娘ジェインはさいご、きっと幸せになるにちがいない。彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う。これが起承転結の起。承は、ジェインみずから運命を切りひらくことで訪れる。ロチェスターとの出会いは運命的であり、これも結末は読める。しかしそこから長い障害物競走がスタート。ハードルはまず年齢、身分、貧富の差であり、ついでロチェスターをめぐる謎と、彼の上から目線だが、なによりジェイン自身の元祖ウーマンリブともいえそうな独立不羈の精神である(これは結部までつづく)。ゴシックホラーもどきの奇怪な事件が起こり、恋敵も出現、いかにもメロドラマらしい展開だが、謎が合理的に解決されたところでふたりは離別。あくまで自分のポリシーを枉げぬジェインならではの運命の選択だ。転部でジェインの環境は激変するが、こうした変化はメロドラマには必須。そこに都合のいい偶然が重なるのも必須で、最大のハードル、牧師セント・ジョンとの対決を経て終幕を迎える流れも必然。いまや現代の読者には陳腐と思えるかもしれぬ筋立てだが、これは十九世紀中葉、ヴィクトリア朝の物語である。当時の読者にとって、ジェインの登場は相当なインパクトを与えるものではなかったろうか。規範的で保守的な道徳観がつよい時代にあって、上の合理主義と独立精神に加え、激しい情熱の持ち主でもあるジェインは、知情意、三拍子そろった「元祖ウーマンリブ」の代表だったともいえよう。そんな彼女とセント・ジョンのバトルは本書の圧巻である。セント・ジョンは敬虔だが頑迷なキリスト教徒であり、その言説は教条的でベルジャーエフのいう「ガラスの愛」を思わせ、冷たい。一方、ジェインの愛には熱い血が流れている。ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう「ヴィクトリア朝的妥協」とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか。ともあれ、メロドラマといえば恋と不幸、波瀾万丈の物語というのが現代の趨勢であり、本書は周知のとおりその鼻祖のひとつである。が、ヒロイン、ヒーローが美女美男ではないという点もふくめ、その内容はけっして通俗的ではなく、むしろジェインの造形にみるように、現代文学がもはやほとんど忘れてしまったかのような知的昂奮を味わえる箇所もある。故きを温めて新しきを知ることのできる名作である。