ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nathaniel Hawthorne の “The House of the Seven Gables”(1)

 数日前、Nathaniel Hawthorne の "The House of the Seven Gables"(1851)を読みおえたが、なかなか考えがまとまらなかった。大昔、一部だけ読んだことのある "The Scarlet Letter"(1850)について調べたり、同じくかじり読みしたD・H・ロレンスの『アメリカ古典文学研究』をパラパラめくったりしたが、それが本書のどんなレビューもどきに結びつくのか、このイントロを書いているいまもまだ、よくわからない。はて……

[☆☆☆★★] ラヴクラフトにつよい影響をおよぼしたとされる本書だが、おそらくラヴクラフトは魔術や超自然現象など、自分に関心のある部分だけに着目し、それを自作のこやしとしたのではないか。じっさい、この本家本元のほうはタネも仕掛けもあるゴシック小説である。たしかに17世紀末、ニューイングランドの港町に建てられた七破風の屋敷にまつわる因縁話は、ときに怪奇小説的な様相を帯びるものの、築百年以上もたった19世紀中葉になると、ほぼすべて合理的に説明される。その意味で、これが初代当主の「象徴する古い秩序が過ぎ去ってゆく話」というロレンスの指摘は正しい。もとよりホーソーンは、「降霊術とか魔法とか、その手の見せかけの超自然能力」なんぞ興味がなかった。彼は終始、「二元論という十字架」を背負った人間の魂の奥底を見つめ、そこにひびく「魔性の声」に耳をかたむけようとした。ただし本書の場合、そうした人間の二面性の追求はもっぱら外部からの謎解きに依る。前半の緻密な人物造型は、『緋文字』のヘスターとちがって、罪びと自身の内面と求心的にかかわるものではない。むりもない。「ピューリタン中のピューリタン」だったホーソーンが、ピューリタンにあるまじき俗欲をあばき出すのは当然としても、俗物なら罪の意識の掘り下げようがないからだ。とはいえ、現実と仮想現実を交差させながら俗物の偽善ぶりを描いたところはみごと。本書を楽天的ともいえる雰囲気で締めくくったホーソーンだが、彼はエマソンたちの甘いロマン主義を批判してやまなかった作家である。終幕のロマンスから脳天気な楽天主義を読み取るのは早計だろう。