ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(4)

「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。と昔からいわれるように、三学期は、あっというまに過ぎてしまいます。だからみなさん、いままで以上に一日一日がんばってください」
 大昔、ぼくが小学二年生か三年生のころ、三学期の始業式で校長先生がおっしゃったことばだ。「一日一日」は「毎日」だったかもしれないが、あとは鮮明に憶えている。「一月は~」ではじまる頭韻に、子どもながら、なるほどなあ、といたく感心したからだ。(むろん当時は、頭韻とは知らなかったけれど)。
 ともあれ、この一月なかばから、いつにもまして飛ぶように時が流れてしまった。読んだ本はたった三冊だけ。それも二冊は寝ころんで。「今年は本をたくさん読もう」と年頭に誓ったばかりなのに、早くも挫折とは、やんぬるかな。
 さて第二回の古典巡礼となった "Pride and Prejudice"(1813)、いまさらなんの説明も必要ないほどの超名作である。一回目の "Jane Eyre"(1847)同様、「そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう」。
 と思いつつ、いちおうレビューをでっち上げることにした。
 "Jane Eyre" のときは、どうしてもエリザベス朝について調べる必要を感じたので Wiki を検索し、ついでチェスタトンの『エリザベス朝の英文学』も拾い読みしたけれど、今回は参考記事・文献ゼロ。モームの『世界の十大小説』も目次しか見なかった。ぼくの勘ちがいで、『高慢と偏見』が載っていなかったらマズいと思ったからだ。
 古典について論評するときは本来、少なくとも時代背景など周辺知識を得るのが常道というか必須である。いうまでもなく、さもないと恣意的な解釈になる恐れがあるからだ。ぼくも大昔、必要があって "Moby-Dick"(1851)に取り組んだときは、当時定評のあった研究書を何冊か参考にさせてもらったものだ。
 その成果?が数十年後、本ブログに連載した「"Moby-Dick" と『闇の力』」という記事である。

 あれを書いているときも、Milton R. Stern の "The Fine Hammered Steel of Herman Melville"(1957)だけは一部読みかえした。

 しかし "Jane Eyre" もそうだったが、この "Pride and Prejudice" はまあ恋愛小説ですからね、とバカにしたわけではないけど、Melville とちがって寝ころんで読んでも罰が当たらないだろう。ずっと高血圧で頭が痛いことだし、上のエリザベス朝のことのように必要があれば起きて調べればいいさ。
 というしだいでたどり着いたのがレビューらしきもの。おそらく二百番煎じくらいの蛇足の蛇足、もしくはそれこそまさに恣意的な解釈のはずだ。

 その後もコワくて『世界の十大小説』もなにも目にしていない。チェスタトンがなにか鋭い指摘をしていそうな気もするが、どうせエリザベス朝(1558 - 1603)の話じゃないしってことで無視。
 だからこれもきっと自分勝手な感想にすぎないが、"Pride and Prejudice" は意外に現代的な小説だと思った。「現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実」、「愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合」。具体的に昨今のどんな国際情勢がぼくの頭に浮かんだか、それはもちろん「アレ」ですよ。
 むろん本書が家庭小説の鼻祖と目されていることは、なんとなく知っていた。じっさい読んでみて、その定説は一面正しいとも思った。でもいやいや、ここでは家庭というコップのなかには収まりきれない嵐もけっこう吹いてますよ、だからこれは「小さな大小説」なんです、というのがぼくのケ・ツ・ロ・ン。お粗末さまでした。(了)