ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jane Austen の “Emma”(5)

 あしたから亡父の十三回忌で愛媛県宇和島市に帰省(ゆうべの地震にはびっくりした。余震がこわい)。そのため今週はきのうおととい、二日つづきでジムに通い、さすがにバテた。なかには毎日通っているひともいるようだけど、ぼくの場合、一回のメニューがかなり濃いのでムリ。帰宅後、しばらく仮眠をとらないと活字に目がついていけない。
 しかもいま読んでいるのは "The Portrait of a Lady"。三日前からいくらも進んでいない。たぶん帰省旅行中が胸突き八丁だろう。今回は往復とも陸路なので時間はたっぷりあるけれど、睡魔が敵だ。
 さて "Emma"(1815)の落ち穂ひろい。ほんとうは(4)でおわるはずだったのに、とんだハプニングで「春休み」となり、今回にズレこんでしまった。
 Jane Austen といえば、だれしもまず "Pride and Prejudice"(1813)を思い浮かべ、よほどのことがないかぎり、そちらから先に読むはずだ。"Emma" の前作なので、両者の特徴や相違など早わかりという利点もある。
 たとえば第一印象として、二作とも要するに結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のレビューを引くと、「たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる」。
 勘ちがいかもしれないけれど、いくら古典といっても、ぼくのような素人ファンなら、これくらいの時代認識で両書ともまずまず楽しめるのではないか。ただしもちろん、本格的に研究されるかたはべつですよ。
 ともあれ結婚狂騒曲。それ自体はまあ、ウディ・アレン映画の古典版みたいなものだけど、

ウディ・アレンとたぶんちがうところは、pride and prejudice、あるいは "Emma" の場合なら vanity and arrogance という人間の宿痾が、やっぱり宿痾なんだなと思わせる点ではないかしらん。
 なぜ宿痾かというと、ひとつには、ギリシア神話に由来した「ヒュブリス」(hubris)ということばがある。Wiki によれば、これは「神に対する侮辱や無礼な行為などへと導く極度の自尊心や自信を意味」する単語で、「『驕慢』とか『傲慢』とか『野心』というように訳され」、「そのヒュブリスが人間の心にとりつくと、当人に限度を超えた野心を抱かせ、挙句の果ては、当人を破滅に導くと考えられていた」。
 時は流れて現代の世界情勢はどうか。どこかの国など、hubris の権化のような指導者が君臨し、隣国を属国扱いしているのではないか。
 その一事をもってしても hubris は人間の宿痾といえるのだけど、Jane Austen がどこまでギリシア神話を意識していたかは不明。おそらく的はずれだろうが興味ぶかい問題である。もしぼくがいま英文科の学生だったら、卒論は「Jane Austen と hubris」にしようと思うかもしれない。それも、ウディ・アレンと比較しながらってのはどうだろう。
 ともあれ結婚狂騒曲。"Pride and Prejudice" のほうはほんとに「ストレート」で、Elizabeth と Darcy がそれぞれ初めて登場したときから、あ、このふたりが結ばれるんだな、とすぐにわかる。恋愛映画で美男美女が顔を出した瞬間気づくようなものだ。
 ところが "Emma" は「変化球」。どうせ Emma とこの男が、と思っていたら、いやはやビックリしましたね。なにしろ Emma 自身も驚く展開が待っていた。Emma even jumped with surprise;―and, horror-struck, exclaimed,……/ "You may well be amazed," returned Mrs. Weston,……"You may well be amazed.……It is so wonderful, that though perfectly convinced of the fact, it is yet almost incredible to myself. I can hardly believe it.……"(p.371)
 省略はネタバレを防ぐため(「どうせ Emma とこの男が……」あたり、すでにネタバレですが)。ぼくはなにしろ邦訳でも読んだことがなかったので、ほんとに驚いた。当時の読者もきっと同じ反応だったのでは、という気がする。もしかしたら Austen 女史自身、読者があっと驚くのを期待していたのかもしれない。どう、こんな話になるなんて、ちっとも想像できなかったでしょ。
 落ち穂ひろい(3)でぼくはこう書いた。「作者 Austen としても、(前作の)二番煎じになることだけはぜったい避けたかったはず。いやそれどころか、きっと新しいアイデアが浮かんだからこそ、こんどもイケるぞ、と思ったのではないか」。
 そのアイデアはふたつあり、ひとつは(3)で述べたとおり、「聡明で思慮ぶかいエリザベス」とちがって、Emma という「欠点のある等身大のヒロイン」を思いついたこと。もうひとつは、上の「変化球」。これについて本書のレビューでは、「家族や周囲の人びと、そしておそらく大半の読者の予想に反する人物がヒーローとな」る、としか紹介しなかった。この(5)で少々ネタを割ったわけです。
 ともあれ、本書は「『高慢と偏見』で文学キャリアの頂点をきわめたオースティンがさらなる高みを目ざし、同書で確立した自身の創作パターンを打ちやぶろうとした野心作」。ニューヒロインの創造と意外な展開で「パターンを打ちやぶろうとした」のではないか、というのがぼくの臆測だ。(了)