ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charles Dickens の “Oliver Twist, or, the Parish Boy's Progress”(3)

 "Middlemarch"(1871 - 72)の登山開始。ほんとうは現代文学にもどるはずだったけど、"Vanity Fair"(☆☆☆☆ 1847 - 48)が意外に早く片づいたので、7000メートル級の高峰をもうひとつ登れるのではと思って着手した。
 ところがギッチョン、ベースキャンプ(BC)出発直後、C1へのルート上に巨大な氷河の崩落地帯があり、これを越えるのは容易ではない。語彙からなにから、後注だけではクリアできず、パソコン、スマホ、どちらにしろAIのお世話になりっぱなし。
 このぶんだと、登頂は来月下旬か、もしかしたら七月初旬にズレこむかもしれない。来週末から広島・山陰へ旅行する予定なので、それまでにC1へ到達できるかどうか、それしだいで以後の日数も決まりそうだ。
 さて表題作。前回はチェスタトンのディケンズ論を引用したところでおわった。「ディケンズの小説が大衆的なのは、それが非現実の世界ではなく現実の世界を描いているからである」。
 ここで問題なのは、では「現実の世界」とはなにか、ということだ。斜め読みしただけなので誤解の可能性はおおいにあるのだけど、チェスタトンはどうやらそれが「大衆の嗜好」に合致したものと考えていたようだ。「大衆が好きなのはある種の文学であって、たとえそれがくだらないものであろうとも、すぐれていると言われる別の種類の文学よりもこの種の文学を好むのである」。「ディケンズは庶民が欲したものをみずからも欲したのである」。「彼は彼ら(大衆)に理解できるものを単に生み出しただけでなく、それを生み出すために苦労をし、煩悶したのであった」。彼は「平凡な知性にとって身辺の非凡な事柄を、活力と手際のみごとさでもって表現した」。
 要約すると、ディケンズは大衆好みで大衆にとってわかりやすい小説を書いた、ということでしょうか。
 それでもまだ疑問はのこる。「現実の世界」とはなにか、イマイチはっきりしない。
 そのヒントになりそうなのが、"Oliver Twist" の(おそらく)初版の挿絵についての解説である。「この巨大な悪魔たち(Fagin と Monks)の絵姿は(中略)オリヴァーの魂のために泣き叫ぶ天や地を取り囲み、安全のために彼が閉じ込められている家を包囲しているある種の悪魔の軍団としてこの泥棒たちを意識することを表わしているのである」。
 これもまわりくどいが、要するに Oliver のまわりには「天使と悪魔」がいたということだろう。そしてそれこそまさに、大衆にとってわかりやすい現実なのではなかろうか。
 拙文から引くと、「(本書の)各人物は善玉悪玉に峻別され、当初から勧善懲悪の結末が透けて見える。ディケンズは『大衆にすべてを提供してやりたい』、『悪人を罰として、善人をご褒美として(大衆に)分配』」したいと願っていた、というチェスタトンの指摘はじつに正しい」。
 つまり、Dickens によれば、善玉悪玉の峻別、勧善懲悪が大衆好みの「大衆にとってわかりやすい現実」ということになる。これ、現代文学にも当てはまりそうですな。(つづく)

(現在、東京都美術館でワイエス展を開催中。ぼくがPCの壁紙にしている「クリスティーナの世界」は展示されていないようだが未確認)