ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Klingsor's Last Summer" 雑感(15)

 はてさて、いつになったら表題作にたどり着けるのやら。本ブログを再開した当初は、一気にお目当ての『クリングソル』をネタに雑談ができるものと思っていたが、なんのなんの。メモを頼りに拾い読みした "A Child's Heart" と "Klein and Wagner" がじつに内容の濃い作品で、いつもぐうたらな生活を送っているぼくでも、思わず襟を正さずにはいられなかった。
 しかも、襟を正したついでに、勢いあまって「ヒンシュクを買いそうな失言」の連続。それがこの雑感を引き延ばしている最大の要因であり、そろそろ表題作に移らなければ……と思いつつ、もう1回だけ、ぜひ「失言」しておきたい。
 「善から悪が生まれる」とか、「善悪を、正義と不正義を峻別するのは未熟な精神である」というヘッセの倫理観を知って、ぼくは「さすがはヘッセ先生、タダモノではありませんでしたな」と感心したのだが、考えてみれば、文学とは人間の生き方を描いた芸術である(とぼくは思う)。そこには当然、よい生き方もあれば悪い生き方もあり、善人悪人どちらもいる。その善人にもどこか欠点があり、悪人にもどこか美点があるものだ(とてもそうは思えないような凶悪犯もいますけど)。早い話が、誰しもわが心を振り返ってみれば、われながらよしよし、とニンマリするところもあれば、ああもう情けない、とガッカリする面もあるのではないか。これを要するに、「人間は天使でも獣でもない」。
 それゆえ、ヘッセにかぎらず文学者といえば、人間の生き方に通じていなければならない。よい生き方も悪い生き方も、善人も悪人も、善人の欠点も悪人の美点も、おのが心中の善なる部分も悪なる部分も、とにかく「天使でも獣でもない」人間の諸相を認識・理解しておかなければ、少なくともすぐれた作品は書けないはずである。
 ところが、この夏の安保法案騒動に登場したわが国の「文学者」たちはどうだろう。「何とかしなければ」、「もういても立ってもいられない」、「民主主義があぶない」、「平和憲法の下の日本はなくなってしまう」。ネットでざっと拾ったこれらの発言から察するに、彼らはおそらく「『善悪を、正義と不正義を峻別』し、平和を守る立場の自分たちは絶対的に正しく、国民を戦争へと導く者は絶対的に間違っていると信じている。要するに平和は絶対善、戦争は絶対悪というわけだ」。
 彼らも文学者なら、いや文学者でなくても、「天使でも獣でもない」人間のありようについて誰でもわかっているはずなのに、どうして平和と戦争の問題になると、みんないちように「善悪を峻別してレッテルを貼るだけの図式的な思考」におちいり、「未熟な精神」を発揮してしまうのだろう。やはりそこには絶対的な価値観が働いているとしか思えない。そんな彼らが「すぐれた作品」をものする一流の文学者とはとうてい信じがたいが、「平和憲法の下の……」と述べたのはなんとノーベル賞作家である。ま、彼らとぼくは文学観、人間観がちがう、ということなんでしょうな。
 ともあれ彼らは、平和は絶対に守らなければならない、平和を守ることはよいことだ、だから当然、平和を守るための戦いは許される、いや正しいことだ、自分たちは正しいことをしているのだ、と信じている。そういう〈正義感〉が、上に引いたような怒りの声となっているわけだが、「人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう」。われながらウンザリするほど引用してきたパスカルのこの箴言は、まさに正義から戦争が生まれる過程を要約したものである。
 もしかしたら、上の文学者たちは、国家が起こす戦争は許されないが、市民や国民レベルの戦いなら許される、と思っているのかもしれない。が、みずから「平和を守るための戦いは正しい」と信じて戦いながら、その一方、「米ソ中をはじめ国家単位で、あるいは宗教単位や民族・人種規模で昔から人間が行なってきた」平和を守るための戦いは正しくない、というのは言葉の矛盾ではないだろうか。言葉を扱うことが専門であるはずの文学者がそんな矛盾を犯していいのか。そもそも、国家や宗教、民族、人種などから独立した市民、国民など存在するのだろうか。
 ううむ、書けば書くほど問題が大きくなって今日は時間がない。もうこのへんでやめておくが、とにかく「文学観、人間観」の相違かもしれないけれど、ぼくの見るところ、上の文学者たちは「善悪を、正義と不正義を峻別する」「未熟な精神」の持ち主であり、彼らが峻別した「善悪、正義不正義はレッテルに過ぎない」。……えらく長い「失言」で、疲れました。
(写真は、愛媛県宇和島市にある和霊神社。市内最大の神社である)。