ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jenny Erpenbeck の “Kairos”(1)

 先日、昨年の国際ブッカー賞受賞作 Jenny Erpenbeck の "Kairos"(2021, 英訳2023)を読了。Erpenbeck(1967 - )はドイツの著名な作家で、本書は彼女の長編第四作。
 これ以前にも、第一作 "Visitation"(2008, 英訳2010 未読)が2019年にガーディアン紙の the Best 100 Books of the 21st Century に選出。第二作 "The End of Days"(2012, 英訳2015 ☆☆☆★)が2015年の Independent Foreign Fiction Prize を受賞、および2016年の国際IMPACダブリン文学賞最終候補作に選ばれるなど、Erpenpeck はドイツ国外でも高い評価を受けている。
 この最新作はどうだろうか。

Kairos

Kairos

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[☆☆☆★★] エピローグで意外な真実が暴露される。これによりプロローグをはじめ、全篇の意味も一変。若い娘カタリーナと、妻子ある初老の作家ハンスの不倫劇が、じつはドイツの東西分裂以降、ベルリンの壁崩壊までの苦渋に満ちた旧東ドイツの市民生活の象徴であったとは……。ふたりは、機会をつかさどるギリシア神話の神カイロスに導かれたように邂逅。当初、両者のことばと思いが切れ目なく交錯する、いわば「融合話法」に惹かれる。そこへドイツおよび旧ソ連の歴史も混入。第二次大戦の惨禍はもとより、スターリンの恐怖政治とその批判、ヒトラー独裁とその末路、旧東ドイツ・ホーネッカー体制とその崩壊。こうした激動の現代史と政治の現実が愛の語らい、ベッドシーンにいり混じる複雑な構造がしばし読ませる。しかしカトリーナが若い男と浮気、それをハンスが執拗にとがめるあたりから、一見痴話げんか、痴情のもつれと歴史や政治との対照になり、飽きる。と、そこへ最後のどんでん返し。あわてて巻頭から読みなおすと、たしかにそこには意味ふかい光景がひろがっている。がそのまま再読をつづける気力はなかった。未読のかたは、プロローグ→本篇の冒頭→エピローグ→のこりの本篇と読んでみてはどうか。意外性はなくなるが、中途の退屈なくだりにも感銘をうけるかもしれない。

Jayne Anne Phillips の “Night Watch”(3)

 シンプル・イズ・ベスト。ここではすべての流れが、Endurance was strength. The courage of the lost swelled and moved, a force separating the days, clearing the way.(p.276)という結びのことばにむかって収斂していく。
 その流れも煎じつめると、ふたつほどしかない。旧作 "Lark and Termite"(2009 ☆☆☆★★)同様、男女の愛と家族愛。要はそういうことだ。
 がもちろん、単純な構造が浮かびあがってくるまでには、ある一定の時間がかかる。しかも当初は謎だらけだ。I got up in the wagon and Papa set me beside Mama, all of us on the buckboard seat.(p.3)And don't call her Mama, he said. ... / You know what to call her, he said. Don't fail in't. / You said call her Miss Janet. Though it is not her name./ It is her name now.(p.4)
 うん? いったいどんな家族なんだろう。
   I turned to see where she would go. ... The sign was written in brass script: Trans-Allegheny Lunatic Asylum. ... / She's not a lunatic, I said.(p.15)... you'll stay with her./ Here?/ This is home. ... / Then listen, he said. I am not your Papa, nor have I ever been. ... / So don't be looking for me, ... / I rode you here. It was on my way. Tell me so./ You rode us here, I said. It was on your way.(p.16)You'll tell the story. The wagon was moving off and his words drifted back with the dust.(p.17)
 虫食いのようにひろっただけでも謎は深まるばかり。
 そこへ現れたのがタイトルの人物だ。I'll call the Matron. The cooks are not in yet, but I've some victuals set out. I'm O'Shea, the Night Watch.(p.21)
   ははあ、この O'Shea が主人公なのか。だったら舞台もこの病院で、彼が夜勤のさい上のフシギな家族と接するうち、しだいに秘密のヴェールがはがされていく。
 と思いきや、次章で話は十年前、南北戦争の時代にさかのぼり、舞台ももっぱら森のなか。He and Eliza made no children in their refuge, those short years before the War. ... It seemed a trick of fate when she got with child just as War broke out.(p.46)
 ふたつの物語は当然、いずれどこかで結びつくと思われ、事実そうなる。とネタを割っても割りすぎではないだろう。ミエミエだからだ。
 ゆえに「単純な構造」といえるのだけど、当事者自身、つまり冒頭の I, Mama, Papa、ついで O'Shea、それから He と Eliza たちにはむろん先の展開が読めない。しかもその Papa と O'Shea, He がじつは……おっと、それはヒミツ。
 ともあれ、蠱惑的な謎に魅せられた読者が作中人物よりも先に(勘ちがいの可能性はあるにしても)謎を解き、彼らの運命を知り、その運命の先にハッピー・エンディングがあることを願う。そう願った瞬間、読者はすっかり物語のとりこになっている。
 伝統的でオーソドックスな手法ではあるが、男女の愛や家族愛を描くにはうってつけだ。少なくとも、凝った語り口や退屈な瞑想にさんざんつきあわされたあげく、え、「要はそういうことだ」ったの、と拍子ぬけするより、はるかにマシである。(つづく)

(下の写真 (2015年撮影) は、愛媛県愛南町紫電改展示館に展示されていた紫電改。昨年7月のNHKニュースによると、「空中戦の末、愛南町の沖合に沈んだ機体は昭和54年(1979年)7月に引き揚げられ」、「国内に現存する唯一の機体として展示されてき」たが、展示館の老朽化が進んだため、まず機体を補修したのち、令和8年度中に完成予定の新しい施設で公開されるという)

Jayne Anne Phillips の “Night Watch”(2)

 しばらく前から、去年の国際ブッカー賞受賞作、Jenny Erpenbeck の "Kairos"(2021, 英訳2023)に取り組んでいる。
 Erpenbeck(1967 - )はドイツの作家で、彼女の作品は初読かと思ったら、読書リストを検索したところ、"The End of Days"(2012)を読んでいた(☆☆☆★)。同書は2015年の Independent Foreign Fiction Prize 受賞作、および2016年の国際IMPACダブリン文学賞最終候補作。
 その旧作と "Kairos" にはどうやら共通点があるようだ。両書とも、「斬新なアイデアも最初のうちこそ効果的だが(やがて)パターンが鼻につき、飽きがくる」。
 もちろんそれぞれのアイデアはまったくべつなのに、途中で退屈してしまうところが同じとは、上のレビューを読みかえすまで気づかなかった。Erpenbeck とは相性がわるいのかもしれない。
 ともあれ、そんな事情でペースは大幅にダウン。そこへ毎日のように、近所に住んでいる孫のショウちゃん(5歳)が、「ジージー、ポーカ」とやってくる。ポーカとはポーカーのことで、正月に教えてやったところ、すっかりハマってしまったものらしい。
 さて表題作。これは既報どおり、ぼくの2024年ベスト作品。おもしろかった!

 といっても、じつは看板に偽りありで、年間ではなく下半期か第4四半期ベスト。去年は古典巡礼に出かけている日のほうが多かった。
 その半期だか四半期だかに読んだ本をふりかえると、大なり小なり、なんらかのかたちで愛(と死)が描かれていたようだ。古典的かつ永遠のテーマのひとつで、浜の真砂はつきるとも世に愛のタネはつきまじ。上の "Kairos" にしても同様だ。 
 ただ異なるのは、タネというか元ネタをいろいろな食材や調味料と混ぜあわせ、いかにおいしい料理をこしらえるか。シェフの腕の見せどころでもある。
 その点、"Night Watch" はシンプル・イズ・ベスト。「『苦難を乗りこえる力は忍耐と勇気』という単純な真実をあらためて教えてくれる感動作である」。
 むろん本書でもあれこれ工夫はほどこされているのだけど、メインは直球勝負。変化球を投げてすっぽ抜けたのが去年のブッカー賞受賞作 "Orbital" で、同賞最終候補作の "Stone Yard Devotional" や "Held" にしても、ひねりすぎてボール。やっぱり、ストレートをバシっと決めてくれたほうが痛快ですな。
 いかん、ぼくも駄文をひねっている。わかりやすくいうと、上の三作は語り口に凝ろうとするあまり、かんじんの語るべきことが(やや)お留守。一方、"Night Watch" からは作者の熱い思いがよく伝わってくる。
 そういえば、Jayne Anne Phillips の旧作 "Lark and Termite"(2009 ☆☆☆★★)も「深い感動を呼ぶ」佳篇だった。

 今回の "Night Watch" は、それをさらに上まわる出来ばえ(☆☆☆★★★)。ううむ、ちとキビしすぎる採点だったかな。(つづく)

(写真は、ぼくのデスクめがけて急降下する零戦のプラ模。ぼくの亡父は特攻隊の生きのこりだったので、いつか製作したいと思っていた。いまは艦船模型にハマり、おかげで読書時間は激減)

Rachel Kushner の “Creation Lake”(3)

  去年今年貫く棒の如きもの
 ご存じ虚子の名句だけど、ぼくも去年の宿題をひとつのこしたまま年が明けてしまった。うん? 句の意味とはちと、ちがいますな。
 さて前回(2)では、カルト集団の教祖 Bruno の哲学的瞑想が退屈とクサした表題作だが、あと半分、「ミステリ部分はけっこう面白い」。
 Bruno の瞑想とは、じつは主人公の「わたし」がハッキングしたメールの本文で、「わたし」は「アメリカの中年女性でフリーの秘密諜報員」。本名は明かさず、今回は Sadie Smith と称して、「南仏の田舎に居住するカルト集団的なコミューンに潜入。ミッションは、巨大地下貯水池の建設に反対する環境運動家たちの動静を監視し、扇動工作によって組織を壊滅へと追いこむことだ」。
   ネタを割りすぎない程度につけ足すと、その運動家たちが環境テロをおこなう可能性があり、それを未然に防ぐのが Sadie の任務である。
 エコテロリズムと聞いてぼくが思い出したのは、だれの名画だったか、ペンキかなにかをぶちまけるという蛮行くらい。が、Wiki によると、もっと組織的で明らかに危険な、文字どおりテロ行為の場合もあるらしい。
 これを上のようにスパイ小説として取り扱った例は、ハヤカワ文庫版『新・冒険スパイ小説ハンドブック』にも載っていない。おそらく本書がはじめてなのではないか。
 冒険スパイ小説といえば、ぼくは忘れもしない2000年の夏、"Anna Karenina" を英訳で読む直前まで、Dick Francis やら Robert Ludlum やら、その手のエンタメばかり読んでいた根っからのファン。ひさしぶりに昔の血が騒いでしまった。
 なにより Sadie Smith のスパイぶりがいい。けっして美人ではないがデカパイ。「冷静沈着でハニー・トラップを得意とするなど狡知にたけ、濡れ場もありニヤリとさせられる」。
 もし映画化するなら、と思って『ソルト』や『レッド・スパロー』、『アトミック・ブロンド』など、わりと印象にのこっている女スパイ映画を再チェックしてみたが、どれもヒロインはアクション系。ハニトラでメロメロではなく、キック・パンチでボコボコにされそうですな。
 美人すぎるしデカパイでもないけど、冷静沈着、奸計で男を籠絡しそうなのは、『愛の嵐』(1974)や『さらば愛しき女よ』(1975)のころのシャーロット・ランプリングか。彼女は当時、30歳前。いやあ、彼女ならぜひハニトラを仕掛けてもらいたい。

 とそんな脱線はさておき、本題にもどると、「作者はこうしたマタ・ハリの流れをくむスパイ小説に飽きたりず、組織の教祖ブルーノの思想を冒頭から開陳」。これがいけない。「エコテロリズムエコロジーだけという安易な物語を避けた点は評価すべきだが」、いっそエコロジーにしぼり、その路線でいろいろ工夫する手はなかったのか。
 あるいは、えらく退屈な瞑想を要領よくカットするか。
 ともあれ、ムダに長すぎる。「作者がもしここで純文学とエンタテインメントとの融合を試みたのだとしたら、その意気やよしと賞賛すべきか、それとも無残な結果におわったことを嘆くべきか。評価のわかれそうな水準作である」。
 とレビューは結んだけれど、ホンネをいえば、往年のシャーロット・ランプリングを思い出させる美女の主演映画で鬱憤を晴らしたいところです。(了)

2024年ぼくのベスト小説

 今年ももう大晦日。去年の今日はトマム・スキー場にいたので、二年ぶりにわが家で第九を聴いている。

 今年は年頭、「もっと本を読むぞと決心」したのはいいけれど、じっさいは八月まで十九世紀英米文学の古典巡礼。おかげで読んだ冊数は激減した。

 その後、いつものようにブッカー賞レースを追いかけ、きのうやっと、最終候補作の落ち穂ひろいがほぼおわったところ。とりあえず、その総括をしておこう。(以下途中まで、「2024年ブッカー賞ぼくのランキング」に転載しました)。

 まず受賞作の "Orbital" だが、どうしてこんなものが選ばれたのか、とニュースを知って絶句。これほどぼくの口に合わない作品はひさしぶりだ。要は、国際宇宙ステーションからながめた時々刻々変化する地球の風景が描かれ、それに呼応して、宇宙飛行士たちの脳裡に去来するいろいろな思いが綴られるだけ。前者はドキュメンタリー映画か、雑誌「ニュートン」の写真で代用できそうだし、後者は平凡なトピックスの羅列にすぎない。選評は未読だが、ぼくの見すごした美点が評価されたのだろう、というしかない。
 1位に推した "James" は、名づけて「ハックルベリー・フィンの冒険外伝」。ハックは助演にまわり、原典で脇役だったジム(ジェイムズ)が大活躍。今年の全米図書賞に輝いたのもおおいにうなずける会心の冒険小説だ。しかしそれ以外の要素がいただけない。ジムとヴォルテール啓蒙思想家との奴隷制談義など、人種差別を扱うさいの紋切り型から脱しようとした試みは評価できるが、議論そのものは不発。ほかのブンガク的工夫も突っこみが足りない。
 "Stone Yard Devotional" はコロナ禍を描いた作品。破局的な状況に焦点を当てず、ホームステイ生活を余儀なくされたのが、じつは自己検証に絶好の機会だったと思い起こさせるところがいい。が、検証される内容は死別の悲しみや、あやまちと赦しなど、ありきたり。
 "Held" は「人生の断片集」。人生のさまざまなピースをちりばめた「叙情的な散文詩と観念的で晦渋な瞑想」の世界だが、その瞑想の先にあるのが「大略、愛と死」ときては、解読に要した時間をかえしてくれ、といいたくなる。
   "Creation Lake" は落ち穂ひろいの途中。書きのこした点を要約すると、これはエコテロリズムをスパイ小説の技法で描いたもの。その「ミステリ部分はけっこう面白い」のだけど、あと半分の哲学的瞑想が退屈。
 以上まとめると、月なみな感想だが、「もはや語るべきことは語りつくされてしまった現在、あとは状況と語り口で攻めていくしかない」という文学の閉塞状況が見えてくる。"Orbital" の受賞は典型例だろう。この程度でブッカー賞受賞とは、文学の水準低下を物語っているような気がしてならない。(転載はここまで。上の「ぼくのランキング」で、ブッカー賞の総括をさらにつづけました。主旨は、「いでよ、21世紀の George Orwell!」)。
 と思ったら、年末に読んだ今年のピューリツァー賞受賞作、"Night Watch" は出色の出来だった。これがなかったら、今年はベスト作品なしでおわるところだった。

 むろん本書でも、南北戦争時代の精神病院という、おそらく文学史的には目新しい状況が設定されている。が、それにたよることなく、やはり手垢のついたホメことばだが、波瀾万丈の物語、涙の感動作に仕上がっている。
 この "Night Watch" といい "James" といい、"Orbital" より上回っているのは、ぼくの色眼鏡では明らか。ゆえに今年は("Night Watch" は去年の作品だけど)、アメリカ文学のほうが勢いがあったように思える。来年はどうでしょうか。
 みなさま、どうぞよいお年を。

Rachel Kushner の “Creation Lake”(2)

 長い、長すぎる。
 400ページちょっとの本だから超大作ではないし、現代の作品ではむしろふつうの分量といえるけど、それでも長い。
 そう感じるわけは、ひとえに、本書の主な舞台、南仏の田舎に居住するカルト集団的なコミューンの教祖、Bruno Lacombe の瞑想が散漫だからだ。
 冒頭 Bruno は、組織の実務リーダー Pascal Balmy にメールでネアンデルタール人の話をする。Neanderthals were prone to depression, he said. / He said they were prone to addiction, too, and especially smoking.(p.3)
 ついでホモ・サピエンスが顔を出すなど(p.8)、以後、こうした先史時代の人類の話題はなんどもくりかえされるが、最初のうちこそ興味ぶかかったものの、やがて飽きてしまった。学術的な意義はさておき、上の引用例でわかるとおり、だからどうした、とミもフタもない感想しかもてなくなったからだ。
 そこで眠気ざましにパラパラめくっていたのが、『ビジュアル版 46億年の地球史』。これはスグレモノです。

 ともあれ、「ブルーノは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの比較、人類の進化と文明の進歩、戦争の悲惨、資本主義の功罪などを論じながら、よりよい未来のために現代人が目ざすべき道を模索する」。
 というのも、こんな一節があるからだ。All attempts to categorize people, Bruno said, whether by astrology or anthropology or blood, answer to a root desire: to know the future. And by knowing it, we hope that we might prepare for it, or even control it. / ... He had looked to species to locate where we'd gone wrong. He had believed it was Better Before, ... / He had been vaguely aware of a flaw in his thinking. ... / Was it Better Before? I honestly can't say, he wrote. In looking back, what I really wanted was to know how we navigate with the knowledge we have. What future do we imagine for our present?(p.367)In my assessments, he said, I have lost my bearings, and I will have to find new ones.(p.368)
 虫食いの引用につき、わかりにくい文脈でスミマセン。ただ、「散漫な瞑想」の一端はうかがい知れよう。とりわけガクっときたのは、最後のワン・センテンス。なんじゃこれは!?
 せっかく眠い目をこすりながら、このくだりをはじめ、「人類の進化と文明の進歩、戦争の悲惨、資本主義の功罪」など、しち面倒くさい話につきあってきたのに、あの努力はいったいなんだったのか。「高尚なトピックスに発展したわりには竜頭蛇尾」もいいところだ。
 ここで本書カバーの折り返しに目をやると、Beneath this taut, dazzling story ... lies a profound treatise on human history. という紹介が載っていた。profound ですか。too profound じゃないかしらん。
 と、やけにクサしてしまったけれど、Bruno の瞑想をほとんどカットすれば、たしかにこれは taut, dazzling story。「ミステリ部分はけっこう面白い」。そちらの粗筋に大半の紙幅をさいた折り返しの記事は、ま、版元の商策ですな。(つづく)

Samantha Harvey の “Orbital”(3)

 本書で描かれる国際宇宙ステーションには、日本人宇宙飛行士 Chie も乗りこんでいる。
 そのせいかステーションが日本上空を通過する場面もあり、ぼくたちはニヤリとさせられるはず。... Asia slides away to the starboard side. Shikoku and Kyushu pass beneath, and everything else is ocean; the same ocean that raids the shore by the wooden house, getting closer to the garden ...(pp.22 - 23)
 the same ocean 以下はむろん眼下の風景ではなく、Think of a house. A wooden house on a Japanese island near the sea, with sliding paper doors wide to the garden and tatami floors sun-blanched and threadbare.(p.21)という「三周目:降下」の冒頭の一節を受けたもの。
 このくだりの直後から、ある女性の人生が描かれ、やがてそれが Chie の亡き母とわかる。But since when did death wait, and what sort of a homecoming would it be anyway? To die on her daughter's [Chie's] arrival on earth.(p.22)彼女の人生行路はなかなか興味ぶかく、しんみりさせられる。
 それは Chie の祖父母が長崎の犠牲者・被爆者だったというエピソードとも関係している。Her grandfather unwell the day of the bomb and sick from the work and left with the baby [Chie's mother], while her grandmother went to the market. There were no remains of her grandmother. There were few remains of anyone at the Nagasaki munitions factory where her grandfather worked ... (p.59)
 Chie にかぎらず、ぼくたちは父母や祖父母、その他の家族や友人知人など、すでに鬼籍に入ってしまった人びとの人生を思うと粛然となる。そのとき多少なりとも、喪失の悲しみをおぼえるのはいうまでもない。
 ここで一連の素人悲劇論にもどろう。いまや大半の場合、「喪失の悲しみ」が小説の題材として「悲しい劇」という悲劇、つまり melodrama でしか描かれなくなったのはなぜか。
 答えは簡単だ。現代には King Lear も Captain Ahab も、Robert Jordan もいないからだ。彼らに比肩しうるヒーローが、みんないなくなってしまったからだ。
 以前も引用したことのある "For Whom the Bell Tolls" の幕切れはこうだ。Robert Jordan lay behind the tree, holding on to himself very carefully and delicately to keep his hands steady. He was waiting until the officer reached the sunlit place where the first trees of the pine forest joined the green slope of the meadow. He could feel his heart against the pine needle floor of the forest.
 つぎもおなじみの引用だが、Captain Ahab はこう叫びながら海の底へと沈んでいく。Oh, now I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. おお、いまこそ感じるぞ、おれの至上の偉大さは、おれの至上の悲しみにある。
 Jordan が感じた胸の鼓動は、Ahab の宣言は、ぼくたちを高揚させる。それはたしかに、I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. という感覚と近いものだ。そしてそれは King Lear をはじめ、シェイクスピア悲劇の主人公たちの破滅に接した当時の、および現代の観客の感想にも近いのではないか。
 偉大なヒーローがいなくなった。ゆえにその死も描かれなくなり、それに代わって、一般ピープルの「喪失の悲しみ」が melodrama の題材となった。
 なんだ、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』の安っぽい焼き直しじゃないか。
 いやはや、まったくそのとおりです。バレバレですな。
 では、なぜ偉大なヒーローはいなくなったのか。その論証は容易ではないが、ごくおおざっぱに暴論を述べると、人間が昔より神から、人間以上の至高の存在から遠くなったから、という気がする。
 その一例が "Orbital" だろう。前回紹介したように、ここでは神は禅問答でしか扱われず、ぼくたち日本人読者だけのことかもしれないけれど、唯一「心にしみて秀逸」といえそうなのは、上のような Chie とその母や祖父母の話。つまり一般ピープルの「悲しい劇」だ。
 そんな本書がブッカー賞受賞とは、あくまでぼくの色眼鏡で見た印象ですが、現代文学の水準低下を物語っているのでは、と思えてなりません。(了)

(宇宙が舞台の映画は、星の数ほど、といわないまでもたくさんあるけれど、『インターステラー』、なかなか面白かった記憶がある)