ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Bell" 雑感(3)

 40年前の夏休み、本書を読みおわったときのことは、今でもありありと憶えている。ちょうど友人のオートバイに同乗して足摺岬へ行く日の朝、徹夜して読み切ったのだ。そのあとぼくは、行きも帰りも後部座席でずっと昂奮状態のままだった。そんな経験をしたのは、あとにも先にもそのときしかない。
 だから結末も、ぼくにしては珍しくかなり憶えている。最後のほうの展開もだいたい。が、それほど読み耽った本だというのに、以後40年間も遠ざかっていた。
 いま読書記録を調べると、Murdoch の作品を再び手に取ったのは16年前で、まず "A Severed Head"。それから、大学1年のときに読みかじった "The Unicorn"。以後、その2作もふくめて16冊も彼女の作品を読んでいる。読んだ冊数という点では、Murdoch は間違いなく、ぼくのいちばんのゴヒイキ作家である。
 が、同じ記録によると、11年前に "A Fairly Honourable Defeat" を読んで以来、そもそも Murdoch から遠ざかっていたことがわかった。当然、レビューは一本も書いていない。
 なんだか昔の恋人と再会するような気分である。少し胸をときめかせながら、古びた Panther Books 版をひらいてみた。今では Vintage 版のほうが入手しやすいようだ。新しい本で読もうかとも思ったが、そう簡単に思い出の本を忘れ去ることはできない。
 いやはや、ぼくはほんとに忘れっぽい、というのが読みはじめてからの第一印象である。読めば読むほど、ああそんな話だったっけ、と思うことしきり。これが「青春時代で最も思い出ぶかい本」とは聞いてあきれる。
 と同時に、やっぱりうまい作家だな、とほぼ10年ぶりに感心してしまった。どこかに40年前、ぼくの躁状態にスイッチが入った箇所があるはずだが、まだそこまでは達していない。それなのにもう、しかしおそらく昔とは違った意味でハマりつつある。
 どこがどう違うのか。早い話が、学生時代は Murdoch にかぎらず、「うまい作家だな」と思ったことはあまりないような気がする。その年の夏も、ぼくは自分の勉強不足を多少なりとも解消すべく、初回に述べた英文学の有名な作品に取り組んでいた。小説技術の巧拙など眼中になく、というより判断の仕方もわからず、ただひたすら物語を、できればテーマを追いかけようとしていた。
 もちろん、今でもテーマは追いかけている。物語も楽しんでいる。が、その一方、枝葉末節のことかもしれないが、主筋やテーマ以外についてもあれこれ目を配るようにしている。すると案外、「うまい作家だな」と気づくことがある。
 たとえば "The Bell" の冒頭では、中心人物のひとり Dora とその夫 Paul の関係が紹介される。洗練された達意の文章で、ぐいぐい引き込まれるが、待てよ。なぜ彼らはいったん別居し、ふたたびヨリを戻すのか。やがて二人とも、田舎のさる 'lay religious community' (p.13) の中で生活しはじめるからだ。夫婦間に火種をかかえた、いわば不幸な人間だからこそ、宗教団体との接触が自然なものとなるのである。
 次に、Dora はその田舎へ行く列車の中で、初老の婦人に席を譲るべきかどうか迷う。これまた鮮やかな心理描写だが、待てよ。なぜこんな描写が必要なのか。じつはこのエピソード、Dora がやがて上の宗教団体の一員 James と Toby 少年に出会うイントロとなっているのだ。しかも当初、彼らはお互いに同じ車両の乗客としか思っていない。このように、宗教団体のメンバー紹介がごく自然に行なわれているのである。
 もうひとつ例を挙げよう。Dora はスーツケースを列車の中に置き忘れる。スーツケースには夫に頼まれた書類が入っている。当然、夫との不仲が再燃するわけだが、それだけではない。そのスーツケースが駅にぶじ届いたと知らされた Doraは、それを受け取りに行く途中、森の中で Toby 少年が裸でいる場面を目撃。同じくそれを見た宗教団体の指導者 Michael と心が通じあう。するとこんどは、次の章で Michael の視点で物語が始まる。つまり話の展開上、スーツケースは列車に忘れられないといけなかったのだ。
 この3例から想像できるように、どの描写、どのエピソードをとっても本書には無駄がない。必然的に次の描写、次のエピソードへとつながる意味を持っている。が、そこを読んでいるときは、「洗練された達意の」「鮮やかな」文体に魅了されるあまり、もしくは人物関係や物語の展開があまりにおもしろく、その持っている意味に気がつかない。まことに「うまい作家だな」と思うゆえんである。
(写真は、宇和島駅の近くにある旧機関区。蒸気機関車時代からの機関区が残っているのは、四国ではここだけという話である)。