ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

A. S. Byatt の“Possession”(4)

 本書のタイトルに二重、あるいは四重の意味があることはすぐにわかる。男と女がお互いに相手を possess したいと思い、その欲求に、ひいては相手にみずから possess される、つまり「取り憑かれる」のがまず最初の二重。ついで、現代の学者たちが新資料の発見を自分だけのものにしたいと思い、その欲求に、ひいては研究対象に possess されるのが二番めの二重。合わせて四重というわけだが、possess と possessed の関係という点ではどちらも同じ二重である。
 最初のほうは簡単だ。よくある話で、疑問の余地はない。問題は二番めのほうである。彼らが夢中になっている作品が本当にみごとなものであり、新発見が本当にすばらしいものなら何の問題もない。が、ぼくにはどうもそうとは思えないので、当初からこうして疑問点を書きしるしている。タイトルに直結しているという意味では、本書の根幹にかかわる問題である。
 この点について Byatt はいろいろな工夫をほどこしている。その最たるものが二人の詩人の作品である。要するに、「ほら、この詩を読めば、彼らの偉大さがわかるでしょ、というわけ」だが、前回述べた理由でその偉大さは、ぼくにはあまりピンと来なかった。
 次の工夫は、新発見によって二人の詩人の評価、作品の解釈はどのように見直されるのか、という点にかんするものだ。これが「イマイチ説明不足」なのである。
 Roland と Maud は二人の詩人、Ash と LaMotte が交わした書簡を見つけ、それまでの研究の流れを変える可能性を口にしている。'It might change the whole line of my thought.' (p.100) この前後をさらに拾ってもいいのだが、彼らをふくむ学者たちの説を要約したくだりがあるのでそちらを引用しよう。' ".... But these letters have made us all look ― in some ways ― a little silly, in our summing-up of lives on the evidence we had. None of Ash's post-1859 poems is uncontaminated by this affair ― we shall need to reassess everything ...." "And LaMotte .... has always been cited as a lesbian-feminist poet. Which she was, but not exclusively, it appears." ' (p.526)
 簡単に言えば、解釈の変更については乞うご期待、というのが実際のところではないだろうか。愛の手紙の発見によって、lesbian-feminist と思われていた詩人がじつはそうとも限らなかった、という件にいたっては、それがどうした、と言わざるをえない。
 と同時にぼくは、これが限界かもね、とも思った。詩の解釈がどう変わり、それによって読者の人生にどんな違いが生じるか、そのことを「イマイチ」以上に説明するのは至難の業かもしれない。たとえ可能だとしても、ほかの部分とのバランスを欠いて冗長になる恐れもある。
 しかも、雑感で紹介したTVインタビューのエピソードなど、新解釈の話は途中で何度か出てくる。ここまでやってくれたんだもの、もう十分ではないか、と上の会話を読んでぼくは思った。そのまとめがレビューである。「二人の詩人の関係が明らかになったことでその作品解釈がどう変更され、それが現代人にどんな意味をもつのか、といった点に疑問は残るが、作者はその疑問を解消する努力も試みている」。
(写真は宇和島市須賀川。八幡鉄橋の下手付近)。