ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

ヒッチコックの『ロープ』

 正月2日目はまず、鈴木雅明盤でバッハのクリスマス・オラトリオを聴いた。

J・S・バッハ:クリスマス・オラトリオ (2CD)[Import CD] (J.S. Bach Weihnachts-Oratorium Christmas Oratorio)

J・S・バッハ:クリスマス・オラトリオ (2CD)[Import CD] (J.S. Bach Weihnachts-Oratorium Christmas Oratorio)

 この季節、ミーハーなクラシック・ファンなら、モツレク→クリスマスソング→第9→四季→ニューイヤー・コンサートと聴きつづけるはずで、ぼくもだいたいその順番どおり。モツレクは重すぎて、いつものように途中で挫折。ついで聴いたのがこの曲で、これは素晴らしい。実際に聴いたのはマタイとヨハネロ短調とセットになっているお買い得盤だが、マタイなどと違ってクリスマス・オラトリオは気軽に聴ける。リヒター盤を何度か聴いたが、これからはこの鈴木盤にまず手が伸びそうだ。
 夕食をとりながら、ヒッチコックの『ロープ』を初めて見た。 ヒッチの映画を見るときはまず、ヒッチがいつ、どこで顔を出すかという点に興味がある。で、目を皿のようにして見ていると、冒頭、大通りの俯瞰シーンで、ご婦人と並んで歩いている小太りの男を発見。体型的にあれがヒッチのはずだと思ったが、その後、資料でも確認した。
 中身はまあ、凡作だろう。トリュフォーの『ヒッチコック映画術』で、ヒッチ自身、「わたしは一本の映画をまるまるワン・カットで撮ってしまうという、じつにばかげたことを思いついた。いまふりかえって考えてみると、ますます、無意味な狂ったアイデアだったという気がしてくるね」と述べている。つまり、実験は見事に失敗したというわけだ。
 その理由はヒッチによれば、「あのようなワン・カット撮影を強行することは、とりもなおさず、ストーリーを真に視覚的に語る秘訣はカット割りとモンタージュにこそあるというわたし自身の方法論を否定することにほかならなかったからなんだよ」。このあたり、ヒッチ自身の分析はすこぶる正しい。
 鑑賞しながら思ったのは、ヒッチらしいシーンが非常に少ないということだ。せいぜい、殺人の凶器となったロープの大写しと、道具箱に死体が入っているとも知らず、家政婦がてきぱきとパーティーのあと片づけをする場面くらい。それもヒッチ調のブラック・ユーモアこそ感じられるが、え?と思わず目を疑うようなショットではない。
 有名な俳優がジェームズ・スチュアートだけ、というのも寂しいし、そのスチュアートも、少し間の抜けたお人好しといういつものキャラではない。『裏窓』や『めまい』のほうがずっと強烈だった。