ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Janice Y.K.Lee の "The Piano Teacher" (4)

 ぼくはカッコよく言えば「原典主義者」、実際は面倒くさがり屋なので、序文、あとがき、インタビュー記事のたぐいはまず読まない。注文する前もレビューなど読んだためしがない。だが、この作品だけはじっくり巻末の参考記事に目を通してみた。本書で「リアルだが戯画的なまでに描かれ」ている、太平洋戦争「開戦直後、日本軍が香港で行なったとされる略奪行為、蛮行の数々が」実際あったのかどうか知りたかったからだ。「これだけリアルな描写を見ると、この Janice Y.K.Lee という香港在住の中国人作家が何らかの史料を元にして書いていることは間違いないだろう」。それゆえ、例によって無知蒙昧、不勉強のぼくとしては、「巻末で史料が提示されていることを願」ったわけである。
 まず「あとがき」だが、ここで作者は、「New York Public Library と Special Collections Library at Hong Kong University で、第二次大戦のこの時期に関する多くの本を読」み、Emily Hahn の回顧録 "China to Me" と、George Wright-Nooth および Mark Adkin の共著 "Prisoner of the Turnip Heads" から「この時代について多くのことを学んだ」と述べている。ぼくはもちろんどちらも知らない「史料」だが、もしかしたらこの「史料」に、日本軍による「略奪行為、蛮行の数々」がしるされているのかもしれない。だが、その点について作者は何もふれていないし、「多くの本」を参考文献としてリストアップしているわけでもない。
 次に readers guide があり、その中にインタビュー記事が載っている。そこで関連のありそうな箇所を探すと、'The Piano Teacher is based in a time and a place that are real, with historical events that did happen,....' と、'I came across some books that had been written in those times.' のみ。要するに、上の2冊を除けば、作者は「史料」をいっさい明示していないのである。
 むろん本書はフィクションなので、作者に「史料」を明らかにする義務はない。だが、巻末に参考文献を列記した歴史小説は珍しくないし、まして本書は、もしかしたら「史上初めて」、日本軍による香港占領時代の「略奪行為、蛮行の数々」を描いた小説なのかもしれないのだ。2冊といわず、読者にもっとサービスしてもよかったのではないだろうか。
 何やら皮肉っぽくなってきたが、ともあれ、昨日も書いたとおり、ぼくはパスカルの言うように、「人間は天使でも獣でもない」と思っている。それゆえ、「鬼畜のごとき日本兵」といえども「すべて鬼畜獣人扱い」することは、「人間の本質を見失った証左である」と考える。ひょっとしたら、「ジャニス・リーは人間の本質にはあえて目をつぶり」、「日本軍による戦争犯罪の告発」を意図したのかもしれないが、それにしては「史料」の提示がほとんどない点が腑に落ちない。彼女はやはり、「人間の本質を見失った」ということなのか。
 インタビューによると、ジャニス・リーは本書が日本にも紹介されることを望んでいるそうだが、ぼくはもし邦訳が刊行された場合、小説としての出来不出来とは関係なく、この本で描かれている日本軍の「略奪行為、蛮行の数々」がひとり歩きしそうな点に危惧を覚える。北村稔の言う「南京事件」でさえ、日本国内にかぎっても左翼進歩派は「30万人大虐殺」説を、右翼保守派は「まぼろし」説をそれぞれ唱えて大論争になっている。本書がほとんど何の「史料」もないまま日本の一般読者の目にふれたとしたら、ここでも両派による「大論争」が起きることは明らかだろう。そういう不毛な争いを防ぐ意味でも、日本の出版社としては、もし本書の刊行を考慮中なら「史料」の提示を作者に求めるべきだと思う。あるいは、専門家に応援を頼んでもいい。しかしこの「専門家」というのがクセ者で、その政治的スタンスによって「史料」は大きく変化する。依頼する出版社の立場によっても「専門家」に偏りが出てくる。はてさて、ジャニス・リーはとんでもない問題作を書いてくれたものだ、というのが日本人の洋書オタクであるぼくの率直な感想である。