ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Janice Y.K.Lee の "The Piano Teacher" (5)

 本書について駄文を綴るのは昨日でおしまいにしようと思ったが、あとひとつだけ気になることがある。
 それを詳述する前に今までのおさらいをすると、本書は「まずまず面白い佳作」という程度。「戦争が生んだ愛の悲劇」にしても「女性の成長物語」にしても平凡なテーマで「小説として新味に欠け」、「登場人物にステロタイプが目立つ」ものの、「光るシーンがいくつかあ」り、とりわけ第3部が「サスペンスフルな展開」で、ぼくのようなメロドラマ好きには「その平凡さを除けばあまり気にならな」い。
 だが、なんと言っても問題なのは第2部だ。たしかに小説の素材としては、太平洋戦争中、「日本軍が香港で行なったとされる略奪行為、蛮行の数々」は斬新そのもので、それどころか「史上初めて」かもしれないが、ここでも日本兵を「すべて鬼畜獣人扱い」している点で「登場人物のステロタイプ化」が目立ち、それは結局、作者が「天使でも獣でもない」という「人間の本質を見失った証左である」。それゆえ、本書は「オーウェルの『カタロニア讃歌』のような戦争文学の傑作と較べると、格段に落ちる作品と言わざるをえない」。
 以上がぼくの本書にたいする小説としての評価である。ここ数年のあいだにぼくが読んだ戦争小説といえば、ユダヤ人作家 Irene Nemirovsky の "Suite Francaise" がまっ先に思いうかぶが、あの中に出てくるドイツ兵がいかに生きた人間として描かれていたかを考えると、本書における「鬼畜のごとき日本兵」はまさしくステロタイプそのもので、これが「人間観察のプロであるべき小説家」の筆によるものとはとても信じられないくらいだ。
 いや、それが日本兵の真の姿なのだ、という反論がここで当然あるだろうが、それなら「略奪行為、蛮行の数々」、たとえば、「女性は片端からレイプ、妊婦の腹を割いて胎児を引きずりだ」すような事件が実際にあったのかどうか。それを証明する参考文献があれば納得できる話だが、作者は史料らしきものをほとんど提示していない。
 ここで冒頭の「気になること」に戻ろう。昨日も書いたように、ジャニス・リーは本書が日本にも紹介されることを望んでいるそうだが、もしこれが「ほとんど何の『史料』もないまま日本の一般読者の目にふれたとしたら」、史実をめぐって進歩派と保守派による「不毛な争い」が始まるだけでなく、「『略奪行為、蛮行の数々』がひとり歩きし」て、へえ、日本軍は南京だけでなく香港でもひどいことをしていたのか、とおおかたの読者は思うのではないだろうか。その点が気がかりなのだ。
 ぼくの立場は単純で、それが事実なら厳粛に受けとめなければならないが、もし事実でないなら、ジャニス・リーの作家としての良識を疑わざるをえない。その判断材料が欲しいところなのに、彼女は少なくとも本書では史料をほとんど明らかにしていない。結果的に、「鬼畜のごとき日本兵」というイメージだけが読者の頭に残ってしまうのである。これでは、彼女の真の意図はそういう「イメージ戦略」、つまり、日本人のイメージを故意におとしめようとする点にあるのか、と邪推されても仕方がないだろう。
 裏表紙の写真を見ると、ジャニス・リーはいかにも聡明な女性のようだ。そんな「邪推」が生まれるのも先刻承知のことだろう。「邪推」がやはり本当に邪推であることを示すためにも、ジャニス・リーには(こんなマイナーなブログで訴えても笑止千万だが)ぜひとも史料の公開を望みたい。巻末のインタビューで彼女は、'I hope that the story will appeal ro readers worldwide.' とも述べている。これを文字どおり受けとるべきなのか、「まずまず面白い」程度の作品の売りこみにしては大げさだな、と裏の意味を「邪推」すべきなのか。その答えは彼女が今後、どんな作家活動を続けるかによって決まるかもしれない。