ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Linden MacIntyre の "The Bishop's Man"(2)

 雑感(5)の続きを書くと、終盤は…ううむ、ぼくの好みとしてはちょっと腰くだけかな。ぼくはなにしろ文学ミーハーなので、ドラマティックな盛り上がりを大いに期待したのだが、で実際、ハイライトシーンもあるのだが、終盤に差しかかるまで小出しにトラブルのヒントが示され、それが一種のサスペンス効果を生んできたわりには竜頭蛇尾。スキャンダルを起こした神父や、事件をもみ消そうとする司教に対し、「自分を棚上げしない正義感をもっと劇的に」爆発させてほしかった。
 詳細は明かせないが、ダンカンが「自分もまた罪人なのだという強い罪悪意識をもち、それが孤独感や悲哀、老いの不安、そして酒へとつながっている」点は十分に説得力がある。ちょっと酒が過ぎるんじゃないかと途中は思えるほどだが、ホンジュラス時代の事件の真相を知ると、これほどの倫理的問題をかかえた人間なら、たしかに酒でも飲まないとやっていけないだろうと思う。ただ、その自己憐憫をかなぐり棄ててまでも立ち上がる姿をぼくは見たかった。
 「汝らの中、罪なき者まづ石を擲て」とは、ヨハネ福音書第8章第7節にある有名な言葉だが、司教の命により神父たちのスキャンダルの処理をまかされたダンカンが直面したのは、罪人がはたして罪人を裁けるのか、という倫理的問題だったと思われる。このうち、彼はどんな罪人だったのか、そして罪人としていかに苦しんだか、という点はよく書けていると思うのだが、この問題が最高の水準に達するのはやはり、立場上、罪人を裁かざるをえないときである。もちろん、そうした場面も過去のエピソードとしては何度か出てくるのだが、それをぜひメインストーリーにからめてほしかった、というのがぼくの意見。そんな展開なら、それこそ大いに「ドラマティックな盛り上がり」があったのではないだろうか。
 …と、ここで、本書とはまったく異なる、だがすこぶる倫理的な「裁き」に直面した人物を描いた小説があることを思い出した。メルヴィルの『船乗りビリー・バッド』だが、長くなりそうなので今日はこのくらいにしておこう。