ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Linden MacIntyre の "The Bishop's Man"(3)

 ダンカン司祭が神父たちのスキャンダルを処理するのは、厳密に言えば「裁き」ではない。裁くのはむしろ、彼に処理を命じる司教の役目であり、ダンカンは問題を起こした神父の事情聴取、配置転換の手配など実務的な仕事を引き受けている。要は、事件がおおやけになる前に秘密裡に処理する「エクソシスト」というわけだ。
 が、それでも相手の言い分を聞かねばならないし、中には居直ったり偽善者ぶりを発揮したり、「お前も誘惑に駆られたことはないのか」と逆襲したりする神父さえいる。その対応を強いられるとき、当然、ダンカンは相手の非を追求しなければならない。そこに「裁き」の要素が入ってくる。
 で、ネタばらしを避けるために一般論化すると、昨日も引用した「汝らの中、罪なき者まづ石を擲て」という言葉が示すとおり、人が人を裁くとき、「罪人がはたして罪人を裁けるのか、という倫理的問題」が生じる場合がある。この問題でダンカンが非常に苦しんでいることはわかるのだが、その苦しみが頂点に達し、右せんか左せんかと迷うのは、スキャンダラスな神父たちを尋問する場面のはずだ。あるいは、少しだけネタをばらすと、事件をもみ消そうとする司教と対決する場面だろう。
 ところが、そういう対決がいささか肩すかしに終わっている点にぼくは不満を覚えるのだ。「罪人がはたして罪人を裁けるのか、という倫理的問題」に直面したとき、人はどんな行動を取るのか、取るべきなのか。この問題をとことん追求していれば本書は傑作となっていたかもしれないのに、残念ながら、どちらかというと感傷的なだけの結末になっている。道徳の問題にかんして追求が甘いのは、Linden MacIntire にかぎらず、現代作家の通弊かもしれない。
 …と考えているうちにメルヴィルの『船乗りビリー・バッド』を思い出したのだが、この一週間のストレス発散のため、今から飲んだくれることにしているので、続きはまた後日。