ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

“The Color of Lightning”雑感(5)

 「歩き読み」のコツは、人とぶつからないようにすることと、何より車の往来に気をつけることだが、いつも通る道の危険な箇所さえ頭にいれておけば、あとは意外に集中して本が読めるものだ。困るのは、本のあいだにはさんでいる読書メモをときどき、いつのまにか紛失してしまうこと。おそらくページをめくった瞬間にするっと落ちてしまうのだろう。本書を読んでいるときもそうで、急遽2枚目のメモを作成したところだが、今日はなかばウロ憶えで書くしかない。
 この小説は、本質的には愛と信頼をモチーフにした作品である。インディアンに妻子を連れ去られた黒人男が救出に向かうという主筋からしてそれは明らかだろう。が、その過程で、単なるセンチメンタルな冒険活劇とは異なる工夫がいくつかほどこされている。ひとつには、ここにあるのは勧善懲悪の世界ではない。コマンチ族はたしかに好戦的であるものの、その襲撃には白人による迫害の歴史からしてやはり必然性がある。「聖なる土地」にあとからやって来て、何を勝手なことを、とインディアンが思うのも無理はない。そんな時代背景を客観的に紹介するのが Samuel の役割だ。
 それから、インディアンのあいだでやむなく暮らしはじめた白人(および黒人)たちの心理をうまく描きわけている。幼い子供の中には、交渉によって文明生活に連れ戻そうとしても拒否する者がいる。「生みの親より育ての親」というわけだ。かと思えばもちろん、突然起きた悲劇を通じて深く傷ついている捕虜もいる。そういう立場の違いが「救出劇」に陰翳をもたらし、それゆえ「単なるセンチメンタルな冒険活劇」とは一線を画すことにつながっているわけだ。
 とりわけ前者の場合、理想主義者の Samuel は連れ去られた人々の実態を知ることで、いわば現実の壁にぶつかり、また一方、インディアンの暴力に接することによってクェーカー教徒としての限界をも痛感している。ぼくの好みとしては、この点をもっと書きこんでもらいたいところだが、それにしても、ここで人間性の矛盾が示されていることは間違いない。つまり「一定の文学的な深み」を汲みとれるわけだ。
 そればかりか、映画の西部劇をほうふつさせるインディアンとの対決シーンもいくつかあるなど、今日は読みどころが満載でほんとうに楽しかった。