ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

David Mitchell の “The Thousand Autumns of Jacob de Zoet”(3)

 先月の末に読んだ Paulette Jiles の "The Color of Lightning" について駄文を綴ったとき、「日本文学より海外文学のほうが倫理の問題を扱った作品に出くわす確率が高いのではないか」という趣旨の独断と偏見を披露してしまったが、食い足りない面こそあるものの、本書もそういう作品のひとつに数えることができる。
 ここで扱われている倫理の問題とは、レビューにも書いたとおり、「おのれの信念を貫きとおす人間の見事さ、自己犠牲の美しさ」である。主人公 Jacob はルターの言葉を引用している。'Whilst friends show us what we can do, it is our enemies who show us what we must.' これがクライマックスにおける Jacob の行動原理なのだが、それはまた、日本人の若い産婆 Orito や通詞の Ogawa、長崎奉行などの危機に臨んでの生き方でもある。彼らはみな一様にすがすがしいし、とりわけ Jacob の奮闘努力ぶりは感動的だ。まさに「洋の東西を問わず自己犠牲とは美しいもの」なのである。
 ただ、不満な点がなくはない。早い話が Jacob の取った行動は、「おのれの信念を貫きとおす」という点ではたしかに見事だが、一歩間違えれば自分はおろか、他人の生命をも犠牲にするものだ。そういう問題が理想主義にはあるはずなのに、本書では理想主義の光の部分にしか焦点が当てられていない。その光と影を同時に描いた不朽の名作『白鯨』と較べるのは酷だが、やはり文学の水準は過去のほうが高いと言わざるをえない。(『白鯨』については http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20081029 参照)。
 それからまた、たしかに「自己犠牲とは美しいもの」なのだが、危機に臨んで人間は果たして他人に誠実たりうるのか、という問題もある。この点を追求した名作がコンラッドの『ロード・ジム』だが、あちらと較べても Mitchell は理想主義の光の部分しか描いていないことがわかる。それゆえ、本書は「秀作」ではあっても「傑作」とまでは言えないのである。(『ロード・ジム』については http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20071125 参照)。
 とまあ、重箱の隅をつついてしまったが、それでも本書が感動的な作品であることには変わりない。「おのれの信念を貫きとおす人間の見事さ、自己犠牲の美しさ」を再認識させてくれるからだ。ここには「立身出世や私利私欲に走る」人物、「美辞麗句で偽の処方箋を売りつける」人物も登場するが、Mitchell はひょっとしたら、そんな人物ばかり横行している現代日本の世相をよく観察して本書に反映させたのかもしれない。ま、それは考えすぎだろうが、今がそういう時代だからこそ本書に感動するのだとは言えるかもしれない。
 …というのはタテマエで、人のために自分を犠牲にしたことなどほとんどなく、好きな本ばかり読んでいるぼくは、ああこれではいかん、少しは Jacob を見習わないと、と思ったのが本音だ。