ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ann Patchett の “Bel Canto” (3)

 ぼくのように、ほとんどなんの予備知識もなく本書に取りかかると、まず「タイトルから察して……音楽関係の本だとばかり思いこ」み、それが「なんと人質事件の話だった」とわかってビックリ。ついで、たしかにソプラノ歌手は登場するものの、いったいタイトルはどうしたんだろう、と疑問に思いはじめる。が、やがて中盤、その歌手が美声を発したところで、あ、なるほどベル・カントだ、と合点するのではないだろうか。
 その「人質のひとりがショパンを弾き、世界的に有名なソプラノ歌手が美声を発した瞬間から……一種のストックホルム症候群がはじまる」。つまり、音楽はストックホルム症候群の引き金であり、テロリストと人質、そして人質同士を結びつけるものなのである。
 だが、その結びつきに限界があることは、べつに詳細に説明しなくてもわかるだろう。ここでぼくにとって不満なのは、「音楽はどこまで彼らを結びつけ、また何が彼らを引き裂くのか」という「問題がとことん追求されない点」である。
 ひょっとしたら人類にとって共通言語かもしれない音楽と、その音楽をもってしても埋められない人間同士の溝という対立軸が曖昧なまま、本書はなんとなく情緒的に進行する。リリカルでありコミカルでもある点はいいのだが、突っこみが足りない。要するに音楽は、たんなる「ストックホルム症候群の引き金」にすぎないのである。
 それゆえ、幕切れでも音楽はこんな扱いを受けることになる。'"When I hear Roxane sing I am still able to think well of the world," Gen said. "This is a world in which someone could have written such music, a world in which she can still sing that music with so much compassion. That's proof of something, isn't it? I don't think I would last a day without that now."' (p.318) ソプラノ歌手 Roxane Coss にからんで述べた通訳 Gen の言葉である。言いたいことはわかるのだが、これが非常に情緒的な音楽論であることは明らかだろう。
 世の中には、音楽は人類をひとつに結び、世界を救うものだと信じている、あるいはそう願っている人びともいるかもしれない。だが現実には、その希望は裏切られつづけている。なぜか。この「魅力的な問題」が提示されるだけで終わっているところが、本書の最大の難点である。