ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Valeria Luiselli の “The Story of My Teeth” (3)

 ぼくはふつう序文や「あとがき」のたぐいを読まない。あくまでも作品本体が鑑賞の対象であって、それ以外は補足情報。鑑賞の助けとして必要を感じたときだけ読めばいい、と割り切っている。
 今回はその必要を感じた。フィクション部分だけでは隔靴掻痒。作者の言わんとするところが今ひとつ読み取れなかったからだ。
 ただし、補足情報といってもメタフィクションの場合は注意が必要である。序文や「あとがき」と称して、じつはフィクションの一部となっている可能性もあるからだ。実際、本書の本文には作者と同名の若い娘も登場している。それならこの「あとがき」に出てくる人物は架空の存在なのか、それとも実在の作者その人なのだろうか。
 どうやら本物のようだ。'This book is the result of several collaborations. In January 2013, I was commissioned to write a book of fiction .... and my commission, was to reflect upon the bridges ― or the lack thereof ― between the featured artwork, the gallery, and the larger context of which the gallery formed part.' (p.191)
 この art gallery に出資しているのが有名なジュース工場だという。'There is, naturally, a gap between two worlds: gallery and factory, artists and workers, artwork and juice. How could I link the two distant but neighboring worlds, and could literature play a mediating role? I decided to write tangentially ― even allegorically ― about the art world, and to focus on the life of the factory. I also decided to write not so much about but for the factory workers, suggesting a procedure that seemed appropriate to this end.' (pp.191-192)
 やがて作者はこう考えはじめる。'How do art objects acquire value not only within the specialized market for art consumption, but also outside its (more or less) well-defined boundaries? .... How do discourse, narrative, and authorial signatures or names modify the way we perceive artwork and literary texts? The result of these shared concerns is this collective "novel-essay" about the production of value and meaning in contemporary art and literature.' (p.194)
 これで作者の意図はようやく理解できた。が、まだ納得できない、というか物足りない点がある。こうした「あとがき」を書く必要性を感じたこと自体、作者が本文だけでは不十分と認識している証拠なのではないか。それゆえ本書には未熟な部分がある、と言っても差し支えないだろう。
 上の説明を読んでぼくが思いついたのはこんな例だ。一見なんの変哲もない同じ一枚の絵を目にして、画家名が伏せられているときはなんとも思わない。ところが、ひとたびそれがピカソの作品とわかったとたん、大きな感動を覚える。市井の中に埋もれている優れた才能を発見することはむずかしい。
 一般人の鑑識眼とはそういうものかもしれない。が、微妙な違いをしっかり見極めるのがプロのはず。
 などなど、しごく当たり前のことを考えるにつけ、上の〈異種格闘技バトル〉から浮かび上がってくる現実、人生の真実は、べつに目からウロコが落ちるほどのものでもない、という気がする。この程度なら、伝統的なスタイルの小説でも十分表現できたのではないか。逆に言えば、「マジック・リアリズムメタフィクションの技法によってしか描きえない現実、人生の真実がさっぱり見えてこないのである」。
 ぼくが今まで英語で読んだメキシコ人作家の作品は、Carlos Fuentes の "A Change of Skin" [☆☆☆☆]、Roberto Bolano の "The Savage Detectives" [☆☆☆☆] と "2666" だけだが、本書はその3作に遠く及ばない。しかし「まだ若い作家だ。今後に期待しよう」。
 以下、7年前に書いた "2666" のレビューを再録しておこう。

2666

2666

[☆☆☆☆★★] ひとつぶで5つの味が楽しめる「総合小説」。さまざまな人間模様の総絵巻が繰りひろげられ、人生の各局面、人間の諸要素がありのままに、理屈ぬきに提示される。いわば人間の自然状態をそっくり眺められる大伽藍が本書である。第1部では、謎のドイツ人ノーベル賞候補作家に強い関心をいだく英伊西、4人の学者が織りなす複雑微妙な心理の綾が読みどころ。意外にメロドラマ性が強く、技法的にも普通のリアリズムだが、学者たちが新しい人物と出会うたびに新たな物語が生まれ、視点が目まぐるしく変化し、シュールな夢の話も混じるなど、劇中劇につぐ劇中劇。終幕で真の愛に目ざめた女性学者と、女に振られた男たちのリリシズムが胸を打つ。第2部では、既にあったマジック・リアリズムの傾向が前面に出てくる。主人公はメキシコのサンタテレサの学者で、この学者、なぜか洗濯物の張り綱に幾何の本をつるしている。本が風に揺れると同時に現実も揺らぎ、夜に聞こえる亡き祖父の声が夢の話とともに現実を浸食する。第3部はアメリカの黒人記者が主人公。母を亡くしたばかりの記者はさまざまな人物と出会い、第1部同様、視点が何度も変化してモザイクのように人生の断片が示される。記者がときおり示す感傷も含め、生きた人間の姿がまさに生々しい。サンタテレサで行なわれたボクシングの試合前の模様も面白いが、白眉は非現実の様相も呈する試合後のラブストーリー。第4部はサンタテレサで起きた連続殺人事件が中心。おびただしい数に上る女性が次々に惨殺される。その真相もさることながら、事件を捜査する警部や警官、事件を「心の目で見る」女占い師、事件の鍵を握る女性国会議員など、例によって視点を変えながら主筋に入り混じる横糸の話が面白い。そのダイグレッションを楽しんでいるうちに、ジグソーパズルでも解くように真相が見えてくる構成も見事。第5部に入ると、第1部では正体不明のままだった有名作家の生涯が少年時代から綴られる。これまで同様、出会った人物の人生も紹介されるが、前半ではそれぞれの体験を通じて、ロシア革命後の内戦から第二次大戦直後に至るドイツ、ロシアの現代史が浮かびあがる。血の粛清やユダヤ人の虐殺などがSFも含めた劇中劇として描かれ、作家自身の物語も大河ドラマそのもので、本書のハイライトと言っても過言ではない。作家が創作を開始する後半は、偶然の出会いを利用したメロドラマに近い要素があり、妻や出版社の社長夫人と一緒に過ごすシーンは、時に溜息が出るほどロマンティック。書中、スタンダールなどの伝統的な小説に最も近づいている。作家の妹が登場する終幕は、第4部の連続殺人事件も含めて今までのいろいろな要素をまとめようとしたのか、粗筋を走り書きしているような感じで詰めが甘い。が、最後のくだりにあるとおり、人間性を鋭い感覚でとらえ、解説を加えずありのままに提示し、多くの人生の移り変わりをあますことなく伝えようとした点で、本書の価値は少しも減じるものではない。長大なセンテンスが頻出する英語だが、語彙レヴェルはさほどでもなく、全体的にとても読みやすいと思う。
(写真は宇和島市の寺町界隈)