ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Naomi Benaron の “Running the Rift” (3)

 本書にも「ジェノサイドを引き起こす人間そのものの悲劇性」を想起させる箇所がいくつかある。たとえば、主人公のツチ族の大学生ジャンが、フツ族ながら親友のダニエルが暴徒に殺されたのを知ったあと、ダニエルが思いを寄せていた女子学生と出会ったときの会話である。"Times change," she said. "We have banded together for the common Hutu good. What do you want?" Jean Patrick stared back at her. "My friend Daniel. We had dinner with you and your girlfriends. You sat with him. Did you know he was killed?" "He was icyitso [a traitor]. He deserved to die. As you do." .... ".... He did not have an evil thought in his head. What happened to all your talk about unity and justice?" She shrugged. "We will not allow Tutsi to enslave us again. If we have to kill, we will kill. We adapt to the situation as we see fit." (p.284)
 つまり、正義のためには殺人が、虐殺が許される、とこの女子学生は考えているわけだ。ぼくは何年か前、このブログで「"Moby-Dick" と『闇の力』」という駄文をえんえん20回以上も連載したことがあるが、その中で引用したのが、次のようなベルジャーエフの『人間の運命』の一節である。「われわれが悪を滅ぼそうとすればするほど、かえってあたらしい悪が生じてくる。…たとえば、われわれが悪を根絶しようと夢中になると他人に対して寛容な心を失い、冷酷となり、悪意をいだき、熱狂主義者となり、容易に暴力に訴えるようになる。善人も『悪人』と戦ううちに『悪人』になる」。(野口啓祐訳)
 正義や理想、善を追求するのは道徳的に正しい行為だが、その追求からジェノサイドが生まれる。この点に「人間そのものの悲劇性」がある。動物ならぬ人間だけが正義のために相手を殺すからだ。むろん、ルワンダ虐殺の場合には、大衆扇動も大きな要因であったことが "Running the Rift" からも読みとれるのだが、本質的に、ここでも正義の追求が「殺す側の論理」であったことには変わりない。
 では、もし人間が正義の追求を放棄したらどうなるのか。ベルジャーエフは続けて言う。「われわれが悪に対して寛容になりすぎ、道徳的努力をやめてしまっても、当然、道徳は乱れ、社会は乱れてしまう」。さらにまた、こうも述べている。「『殺してはいけない』と命じる掟は、この世から殺人をなくすために、また人類にとって最も価値あるものを守るために、あえて人を殺さなければならない場合があることを知らないのである」。
 事実、ルワンダにおけるジェノサイドが終息したのは、ツチ族ルワンダ愛国戦線がフツ族の政府軍や民兵などと激戦の末、ルワンダ全土を制圧したからだった。つまり、「殺人をなくすために…あえて人を殺さなければならな」かったのである。しかしこれもまた正義の追求であり、「殺す側の論理」なのだ。
 ことほどさようにジェノサイドの問題はむずかしい。それなのに、この "Running the Rift" では、その難問の難問たるゆえんがじっくり書きこまれていない。したがって、「人間そのものの悲劇性についての洞察には乏しい」と言わざるをえないのである。…長くなりました。今日はこの辺で。